十九の恋


  • 「コンパ!?」
    「弁護士よ、弁・護・士!!」

    昼の学食で友人の亜紀が鼻息荒く、興奮した様子で言った。


    「亜紀えらい!良くやった!」
    「いつ!?」
    「それが急でさ。明日なんだけど大丈夫?」
    「わー!バイト休まなきゃ!!」

    美穂と奈央子はすぐに食いつき、目を輝かせた。

    (コンパねえ・・・)

    紺野百合香は一人内心ため息をついた。

    「百合香も来るよね??」

    亜紀が百合香の顔を覗き込む。

    「そうね・・・。どうしようかな」

    百合香は乗り気じゃなかった。
    大学生になって2年経ったが、百合香はほとんどコンパに行ったことがない。
    同級生の中には男友達も何人かいたし、男と話すことが苦手というわけではないが、コンパの雰囲気が好きではなかった。

    その場限りの会話に、無理やり作る笑顔。そこで恋が始まるとは思えなかったし、無駄な時間を過ごすだけだという思いが
    百合香にはあった。

    「乗り気じゃないわねー。あんた、彼氏欲しくないの!?」

    美穂が息巻いて言った。

    亜紀も美穂も奈央子も、大学に入って仲良くなった友達だ。
    百合香も含め、4人とも彼氏はいない。

    「そんなんじゃ、いつまでたっても彼氏できないよ?」
    「そうだよ。もうすぐ二十歳だよ?素敵な彼氏と誕生日過ごしたいじゃん!」

    確かに素敵な彼氏は欲しい。恋もしたい。

    しかし、その相手がコンパで見つかるとはどうしても思えないのだった。
    かといって、同じクラスの男は子供っぽく見えてしまい、恋愛対象にはならないのだった。

    4人が通っている大学は都内でも優秀な部類に入る大学だ。
    みんな高校時代は恋愛をすることなく、必死で勉強して合格しただけに、大学生になって素敵な恋をして、素敵な彼氏ができることを夢見てきた。


    「百合香、いつまでも元彼のこと引きずってたらダメだよ」

    亜紀が少し意地悪そうに言った。

    百合香の胸の端っこがズキンと痛む。

    「別に・・・引きずってなんかないよ」

    百合香はムキになって言った。

    「そお?百合香って、誰かに言い寄られてもすぐ断るじゃん。結局、元彼と比べてんのよ」

    (比べてなんかない・・・)


    百合香は以前付き合っていた智明のことを思い出した。
    温和な性格、優しくつぶらな瞳、朴訥な話し方・・・。
    真面目を絵に描いたような人物だった。

    高校時代から付き合い、同じ大学に入学したのだが、入学してすぐに他の女に心奪われ、百合香は一方的に別れを告げられた。

    真摯に百合香を好きでいてくれる智明が大好きだった。
    将来もずっと智明と一緒にいると信じきっていた。

    想いが深ければ深いほど、失った時の痛みは大きい。

    百合香は未だ智明のことを断ち切れないでいた。

    「そんなことない。わかった、私も行く」

    百合香は意地になって言った。
    それを聞いて亜紀は満足気に頷いた。
    4人揃える必要があったから、内心ホッとしているようだった。

    (コンパに来る男なんて、どうせ大したことない)

    百合香は最初からそう決め込んで、仕方なく、気乗りしないままコンパに参加することとなった。


    紺野百合香19歳。都内の有名大学の看護医療学部二年生だ。
    黒く艶やかな髪は肩下まで伸び、切れ長な目の中には同じく黒い瞳が輝く。
    歳を重ねれば美しくなると思われる面持ちだが、今はまだあどけなさが残っている。

    コンパ当日は、百合香以外の三人は早々に大学を出て、百貨店の化粧売り場で化粧をしてもらいに行っていた。

    三人が綺麗に化粧してもらっている中、百合香はほとんど化粧もせずに出席した。
    まるで気合の入れ方が違う。

    場所はお台場にある夜景が楽しめるお洒落なレストランだった。
    百合香が参加した数少ないコンパはいつも居酒屋だっただけに、今回は雰囲気が少し違うなと尻込みした。

    「ねえ、まだ?もう20分たつよ?」
    「あ、メール来た。・・・もうすぐ着くって」

    亜紀が携帯を見て言った。

    「やだー。緊張する〜。化粧崩れてない!?」
    「大丈夫。可愛いよ!」

    三人とも興奮と緊張でテンションが高くなっている。
    百合香は端の席で小さくため息をついた。

    父や母には友達とご飯を食べると嘘をついてきた。
    もう夜の8時半になろうとしている。
    仕事があるからという理由で、開始時間を8時に指定してきた挙句、20分も遅刻してきている。百合香は再び後悔し始めた。

    (お母さんのご飯食べたいな・・・)

    百合香がまだ始まってもいないのに、早く帰りたいと考えていた時だった。
    男性陣が到着する。

    「ごめん、遅れて」

    幹事の男が謝りながら席についた。
    四人ともスーツを綺麗に着こなし、姿勢も良く、顔も悪くない。一人として’ハズレ’はいなかった。
    亜紀たちは露骨に嬉しそうな顔で迎えた。



    「いえ、大丈夫です。みなさん、お仕事お忙しいんですね」
    「そうなんだ。今みんな忙しくてね。おい、お前たちも座れよ」

    幹事の男に促されて、他の三人も席につく。
    百合香の前に座った男は誰を見るでもなく、うつむいて何か考えているようだった。

    髪は綺麗に整えているが、少し茶色に染めている。
    ネクタイもピンクと赤、シルバーの斜めストライプの柄で、どこかのデパートの店員みたいだと百合香は思った。バッチがなかったら弁護士には見えないだろう。

    みんなで飲み物をオーダーすると、幹事の男が尋ねた。

    「えーと、みんなナースの卵ってことだよね?」
    「はい、そうです」

    実際は全員が看護師を目指しているわけではないのだが、亜紀は面倒な説明を省いて答えた。

    「19歳だろ?若いな〜」
    「えー?みなさんだってお若いじゃないですか〜」

    百合香以外の三人はご機嫌取りに必死だ。
    男性たちも若い子と話せるのが嬉しいのか、良い雰囲気でコンパはスタートした。

    (さっきから・・・この人なんなの)

    目の前に座った男が、先ほどからずっと携帯をいじっている。
    話に入ってこないどころか、顔を上げもしない。

    百合香は気分を害していた。
    感じからして、おそらくこの男はモテるのだろう。百合香たちのような女には全く興味がないといった態度だった。

    だからといって、失礼にもほどがあると百合香は思った。

    「あの・・・」

    思い切って声をかけてみるが、百合香の声は届いていないようだった。
    他のメンバーは盛り上がっていて、その様子を気にする者はいなかった。

    百合香はつくづくコンパになんか来るんじゃなかったと後悔した。
    さっさと食べて帰ろう。こういうときに限ってコース料理なんかを頼んでいるものだから、最後まで食べ終わるのに時間がかかる。

    目の前の男は食事が運ばれると、携帯をテーブルに置いて、さっと食べ終わるとまた携帯を手にとり、コチコチと何やら打ち始めた。

    百合香は我慢しきれず料理を食べている男に向かって声をかけた。

    「あの、さっきから携帯いじってますけど、少しはみんなとお話した方がいいんじゃないですか?」

    その言葉に、男はようやく百合香の方を見た。
    うつむいていて良くわからなかったが、長いまつげにスラッと通る鼻、整った顔にじっと見つめられ、百合香は戸惑った。

    「ああー・・・。すみません」

    男はそう言うと、すぐに携帯を手に取った。

    (ちょっと!今すみませんって言ったじゃない!なんなのこいつ!!)

    百合香はガタンと立ち上がり、男を見据えた。

    「私、帰る」

    全員が百合香を驚いた顔をして見た。

    「百合香、何言ってんの?始まったばっかじゃん」

    亜紀がうろたえて言った。

    「あなたみたいな失礼な人と食事してる時間がもったいないわ」

    百合香は亜紀の言葉を無視して男に向かって言った。




    「おい、黒木何したんだよ」

    幹事の男が少しニヤつきながら言った。

    「・・・それは悪かったね。君は最初からつまらなそうな顔してたから、何も期待してないかと思ってたよ」

    黒木と呼ばれた男は意地悪そうに笑いながら言った。

    更にカチンと頭に来て、上着と鞄を手に取って言った。

    「ええ、そうね。最初からつまらなかったし、何も期待していません。だから謝らなくてけっこうです」

    百合香は亜紀にお金を渡し、お先に失礼しますといってレストランを出た。

    (何よあれ!あれが大人の男の言うこと!?気分悪い・・・ッ!!)

    百合香は早足に駅へと向かう。
    もう二度とコンパに行こうとは思わないだろう。百合香が心に誓った時だった。

    「ちょっと待って・・・・!」

    背後から声が聞こえる。
    振り返ると先ほどの男だった。

    走って百合香に近寄る。

    百合香は逃げるようにして背を向けて歩き始めた。

    「待ってって」

    腕を掴まれて、百合香は咄嗟に振り払った。

    「やめてください!」

    百合香が睨むと、男はハハ!と笑った。

    (何で笑うのよ!この人、私のこと馬鹿にしてるんだわ!)

    「あなたって、本当に失礼な人ね!」
    「おっと、ごめん!君を馬鹿にして笑ったんじゃない。よっぽど嫌われたんだなと思って。悪気はなかったんだ。弁解させてよ」

    どうやら謝りにわざわざ百合香を追いかけてきたようだった。
    百合香も気分を害されて帰るよりは謝罪の言葉を聞いてから帰った方が自分の気持ちも落ち着くだろうと、男の言葉を待つことにした。

    「さっきは・・・」

    男はそう言うと、ふと上を見上げた。

    大きく輝く観覧車がそこにあった。

    「観覧車か・・・。よし、乗ろう」
    「は?」

    男はそう言うと百合香の手を取って観覧車乗り場へと向かった。

    「ちょっと!やめてください!観覧車になんか乗りません!」

    さっき会ったばかりの男と観覧車に乗るなんてとんでもないと百合香は焦った。失礼な目に合わされて憤慨している相手と’密室’に入るなんて・・・!

    男は百合香を振り返り、真剣な表情で言った。

    「観覧車に乗って、帰ってくるまでの間に君の許しが得られなかったら大勢の通行人の前で土下座するよ。帰ってくるまでに君が俺を許せたら、今日の無礼は忘れてほしい」
    「な・・・」

    そう言ってチケットを二人分買って観覧車に乗り込んだ。

    「お客様?」

    誘導員が訝しげに声をかける。
    百合香は慌てて乗り込んだ。

    (もう!なんでこんなことに・・・・!)

    百合香は怒りと戸惑いとが合わさった複雑な気持ちで向かい合わせに座る男を見た。

    こんな人と二人っきりになっていいのだろうか・・・。もし何かされたら・・・。

    そう考え出して、表情が強張る。
    そんな百合香を見て、和馬はクスっと笑った。

    「少しでも近づいたら舌噛んで死んでやる!って顔だなあ。何もしないよ」

    和馬に言われて、百合香は緊張をほぐすために頬を撫でた。

    「ごめん、君、名前なんだっけ?」
    「・・・紺野百合香」
    「百合香ちゃんか・・・。素敵な名前だね」

    男の眼差しは優しく、心からそう思って言っているようだったが、百合香は素直に受け取ることはできなかった。

    (急に褒め出したりして・・・。嘘っぽいやつ)

    「俺は黒木和馬。28歳」

    店での表情と違う和馬の柔らかい微笑みに百合香は戸惑った。
    それを悟られないように素っ気無く返す。

    「自己紹介なんていいから、早く弁解してください」

    和馬はハハ、と軽く笑ってそうだね、と言った。

    「まずは携帯いじってたこと、謝るよ。ごめん」

    そう言って頭を下げた。
    ここまでちゃんと謝られると思っていなかった。和馬の態度はわざとらしさも感じることはなかったが、それではなぜあんな態度を取ったのか余計に理解できなかった。

    「言い訳させてもらうと、友達が離婚することになってその相談受けてたんだ。そいつは医者やってるんだけど、あまりに忙しくて休みもなくて。奥さんのことをかまってる時間がなかった。

    その間に奥さんが浮気した。でも、それは家庭をないがしろにした旦那が悪いんだから、伊豆にある別荘を私によこせって言うんだって」

    コンパの前に電話がかかってきたのだが、幹事の男は和馬の職場の先輩なので、電話で席を外すことは出来ないと思い、メールで対応していたという。

    「悔し泣きしてたから・・・ほっとけなくて」
    「それなら・・・そう言ってくれたら良かったのに」

    百合香は少し気まずそうに言った。
    和馬はクスっと笑い、膝に肩肘ついて顔を乗せると、百合香の顔を覗き込んだ。

    「『あんたといる時間がもったいない』なんて、初めて言われたな」
    「あ・・・!そうよ、その後に言ったことも謝ってほしいわ」

    『君は最初からつまらなそうな顔してたから、何も期待してないかと思ってたよ』

    百合香は和馬が言った台詞を思い出して言った。

    「大人気ないわ」
    「売り言葉に買い言葉だよ。確かに大人気なかったけど、君に言われて思わず言っちゃったんだ。実際、君は最初からしかめっ面だったし」

    確かに自分も初対面の人に向かって失礼なことを言ったなと、百合香は今になって反省し始めた。




    「・・・コンパって好きじゃないんだもん」
    「ふーん。仕方なく来たってわけだ。人数合わせで」
    「まあ、そうね」
    「君の場合、コンパが嫌いっていうより、’コンパに来る男が嫌い’なんだろ?」

    百合香は素直に驚いた顔をした。
    まさに言う通りだったからだ。

    百合香の顔を見て、和馬はやっぱりねといった風に笑って頷いた。

    「嫌いで正解だよ。あいつらのことは信用しちゃいけない。実を言えば、ここに来る前にもう1件コンパに行ってたんだ」
    「?・・・どういうこと?」
    「君達に会う前に他の女の子たちとコンパしてたってことさ。6時から集合して8時頃終わって駆けつけたってわけ」

    百合香は唖然とした。

    「1日に2件も・・・!?」
    「最初のコンパが盛り上がれば、もっと遅刻してたし、もしくはドタキャンしてた。まあ、イマイチだったみたいだから早々に切り上げたんだけどね」
    「サイテー・・・!」
    「一応言っておくけど、俺は先輩に従っただけだよ。俺は別にコンパに来る女の子を嫌ったりしないけど、知り合いの前で女の子を口説いたりすることは好きじゃない」

    和馬もどうやら嫌々コンパに参加したらしかった。
    少しだけ親近感が湧く。

    「ほら、てっぺんに来た。せっかくだから夜景も楽しもう」

    そう言われて百合香は初めて外を眺めた。

    (わ・・・綺麗・・・)

    こんな風に観覧車で東京の夜景を楽しむなんて初めてだった。

    (好きな人と見れたら・・・)

    「恋人と一緒に見たかったなーって思ってる」

    和馬が百合香の横顔を眺めて言った。

    百合香はハッとして和馬を振り返った。
    和馬はニヤニヤ笑っていた。

    百合香は少しムっとして言った。

    「そうやって馬鹿にしてたら、大勢の通行人の前で土下座することになるわよ」
    「あーそうだった!でも、もう許してるだろ?」
    「まだよ」

    百合香はわざと厳しい口調で言った。本当のことを言えば、もう怒ってはいなかった。和馬がそう悪い人には思えなかったからだ。
    和馬は厳しいなあと言って頭を軽く掻いた。



    「話題を変えよう。俺たちはどうせこの場限りの関係だ。だから、そういう関係だからこそ話せる話をしよう」
    「どんな話?」
    「仲良い人にはなかなか話せない話。ずっと秘めてる内緒の話や、自分のコンプレックス、夢・・・どれでもいい」
    「嫌よ。初対面の人にそんな話できない」

    百合香はすぐに断ったが、和馬は引き下がらなかった。

    「そお?もう二度と会わないからこそ話せると思うけど」
    「じゃあ、あなたが話してよ」
    「いいよ。何が聞きたい?」

    百合香は少し考えてから言った。

    「・・・じゃあ、夢について」
    「夢ね。夢か・・・・。普通すぎてつまんないけどいい?」
    「弁護士になるって夢はもう叶っちゃったから、あとは普通の夢しかないって意味?」
    「弁護士になるのは夢じゃなかったよ。父親は裁判官、母親は弁護士で、あたりまえのように弁護士の道をたどっただけ。俺の夢は『お嫁さんと末永く仲良く暮らすこと』」

    意外な答えに百合香は驚いた。本当に’普通’だったからだ。

    「俺の親は俺が物心ついたときからすごい仲悪くて・・・。毎日喧嘩。二人で一緒にでかけてるとこなんか見たことない。今はまだ妹が結婚してないから無理してるだけで、妹が結婚したらすぐ離婚するんじゃないかな」

    そういう夫婦を見てきた和馬にとってはまだ見ぬ妻と年老いてまで仲良く暮らすことは’普通’なことではないのだな、と百合香は思った。

    「そう・・・。素敵な夢ね」

    百合香の言葉に和馬は少し驚いた顔をした。

    「本当にそう思う?」
    「うん。だって、奥さんと仲良く暮らしたいのが夢なんて、男の人は中々言わないんじゃない?あなたの奥さんになる人はきっと幸せになれるわね」
    「嬉しいな。そう言ってもらえると」

    和馬は心底嬉しそうな顔をして喜んだ。

    「君は?君の夢も教えてよ」

    和馬に言われて百合香は少し躊躇った。
    初対面の人に夢の話をするのは思った以上に恥ずかしい。
    それでも和馬は話したし、この場限りならと百合香は思いきって話すことにした。

    「私の夢は・・・小児科の看護師になること」
    「小児科・・・どうして?」
    「私、産まれた時、仮死状態だったの。それで・・・」

    百合香は続きを話そうか迷って口を噤んだ。

    「・・・話したくなかったら無理に話さなくてもいいよ」

    和馬の優しい口調に背中を押され、かえって抵抗無く話せる気がした。百合香は続けた。

    「こんなこと信じてもらえないと思うけど・・・。私、覚えてるの。保育器の中にいた時のこと。鼻にチューブ通されて、体中に点滴して・・・お母さんが私を見てすごく泣いてた。多分、ごめんねごめんねって言ってたんだと思う。

    担当の先生や看護師さんのことも覚えてる。すごくみんな一生懸命で、優しくて・・・。私があくびすると、お母さんが喜ぶみたいにみんな喜んでくれた。みんなが家族のような気がしたの。・・・信じる?」
    「もちろん。信じるよ」

    和馬の言葉を聞いて、百合香は少し安心した。

    「私も助けてもらったように、小さな命を助けたいって思って。いつも母親の『先生たちのおかげだ』って感謝の言葉を聞いて育ったから、洗脳されてるのかも」

    百合香は照れくささを隠すために少し冗談ぽく言った。

    「素敵な夢だね・・・うらやましいよ」

    和馬はまっすぐ百合香を見つめて言った。
    百合香は照れて和馬と目を合わせていられずに、外の景色に目線を移した。

    (思ったより・・・悪い人じゃなかったわ・・・)

    視線が地上へと近づく。
    観覧車を降りたとき、百合香はすっかり和馬のことを許していた。

    「許してもらえた?」
    「・・・まあ、そうね。許してあげる」
    「良かった」

    和馬はわざとらしくホッとした仕草をして笑った。

    「あの・・・お友達のところに行ってあげたほうがいいんじゃない?」

    百合香は気になっていたことを口にした。

    「そうするつもり。もう店には戻らないで今から行くよ」
    「・・・ごめんなさい。私のせいで、あなたの出会いのチャンスを台無しにしちゃったわね」
    「いいんだ。どうせ『何も期待してなかった』から」

    和馬が意地悪そうに笑って言った。
    百合香も思わず笑う。

    「やっぱり!笑ったほうがずっと可愛い。最後に君の笑顔が見れて良かったよ」

    和馬は微笑んでさりげなく言った。
    その微笑みにドキ・・・とする。

    百合香が何と返答しようか迷っている時、和馬の携帯が鳴った。
    どうやら例の友達かららしかった。

    「ごめん、じゃあ、俺行くわ。気をつけて帰って」

    そう言うと電話に出て、早足に駅に向かって去っていった。

    (笑ったほうが可愛い・・・か・・・)

    百合香は自分の頬を指で押した。
    きっとずっと表情が強張っていたのだろう。

    それでも’そういうこと’をさらっと言える男のことは信用できないなと思った。
    智明は恥ずかしがりやで照れ屋で、百合香に好きだとか可愛いだとか言うことはほとんど無かった。
    だからこそ余計に、たまに言われると嬉しいし、真実味を感じることができた。

    百合香はため息をついた。

    どうしても智明が出てきてしまう。
    一緒にいると落ち着く・・・。そんな相手だった。

    なぜ今、一緒にいないのだろう・・・。
    なぜあんなに心が繋がっていると思っていたのに、他の人のところへ行ってしまったのだろう・・・。

    百合香はまだ過去の恋から抜け出せないでいた。




    「ちょっとー。百合香、この前のアレはどういうことよ」

    休み明けの講義の前に、亜紀が百合香のもとに来て少し怒ったように言った。

    「ごめん・・・。みんな怒ってた?台無しにしちゃったよね。本当ごめん」
    「別にみんな怒ってなかったけどさあ。・・・あの人とその後何かあった!?」

    亜紀は興味津々といった様子で尋ねた。

    「何もないよ。ただ謝りにきただけ」

    百合香は観覧車に乗ったことはあえて言わなかった。
    特別言う必要もないと思ったし、言えばまた騒がれるだろうと思ったからだ。

    「なーんだ。帰ってこないから何かあったのかと思ってたのに。あの人、一番かっこよかったよね〜」
    「・・・みんなはどうだったの?」
    「そうそう!みんなアドレス交換してさあ。またみんなで飲もうって話してるの。奈央子なんか気に入った人にもうデート申し込んでたよ。まずまずの成果だわね」
    「そう。良かったね」

    百合香は自分が怒って帰ってしまった後の様子を気にしていただけに、亜紀の報告を聞いてホッとしたが、みんながいい出会いがあったかどうかまでは興味なかった。

    「百合香も、あの人と・・・黒木さんだっけ?連絡撮りたかったら連絡先聞いてみるけど?」
    「ううん。私はいい。ありがとう」

    百合香の消極的な態度に亜紀は何か言おうとしたが、教授が入ってきたので口を閉ざした。

    コンパでもう一度会いたいと思う男に出会ったことなどない。今回も同じだった。

    しかし、百合香は再び和馬と出会うことになる。

    百合香は提出期限の迫っているレポートを片付けるため、大学近くのカフェに来ていた。大学の近くということもあって安くておいしいコーヒーが飲める。
    百合香は窓際の席でカフェオレを飲みながらレポートを片付けていた。

    ふと、外を見るとスーツ姿の男性が大勢通りを歩いている。
    何かあったのかとぞろぞろ歩く男性たちを眺めている時だった。

    見覚えのある顔がそこにあった。和馬だった。

    (あ・・・)

    なんという偶然だろう。百合香は少し驚いたが、店の中からガラス越しに声をかけるわけでもなく、歩く和馬を何気なく見つめた。
    和馬は他の男性と話をしながら歩いており、百合香に気付きそうになかった。

    別に気がついてほしいわけではない。百合香はレポートに視線を戻した。
    もう覚えていないかもしれないし、第一、二度と会わないからということで、夢の話をしたのだ。

    気付かれないで良かったと百合香が考えていた時、頭上から声が聞こえた。

    「やあ、こんにちは」

    ハッとして顔を上げる。
    和馬がそこに立っていた。

    「あ・・・」
    「ちょうどこの前を通りがかって。君が見えたからさ。座っていい?」
    「え!?」

    和馬は百合香の返事を聞かずに席に座り、コーヒーを頼んだ。

    「すごい偶然だなあ。あ、でもそっか、大学の近くだね」
    「あの・・・私レポートやってるんで・・・・」
    「少しぐらいいいじゃん」

    百合香はため息をついて本を閉じた。
    しばらく付き合わない限り、解放してもらえそうにないと諦めた。

    「お仕事中じゃないんですか?こんなとこでコーヒー飲んでて怒られません?」
    「今日はもう終わり。すぐ近くで講習会やってたんだ」

    ニコニコと微笑みながら百合香を眺める。
    百合香は手持ち無沙汰でカフェオレのカップを手にして飲んだ。

    「お友達、どうでした?その、離婚でモメてるっていう」
    「ああ、あれね。離婚調停の申し立てすることになって・・・。まあ、ちょっと大変そうだけど、大丈夫だと思う」
    「そう・・・」

    百合香は楽しそうに自分を見つめる和馬を見て不思議な気分になった。

    「なんでそんなにニコニコしてるの?」
    「なんでって、百合香ちゃんにまた会えたからじゃないか」

    百合香は露骨にあきれた顔をした。

    「『私、そういうこと簡単に言う人信用できない!』って顔してるなあ」
    「・・・・その通りです」
    「ねえ、これから何か食べにいこうよ。この前、おいしいもの食べそびれただろ?おわびにご馳走する」
    「だから、私レポートがあるんです!そんな暇ありません」
    「遊ぶ時間は無理やり作るものさ。さ、行こう」

    和馬は百合香のバッグを手にとって立ち上がった。

    (なんて強引な人なの!)

    「ちょっと!」

    百合香が断ろうと立ち上がり、声をかけようとした時だった。

    百合香がいた隣の席に店員が誘導してきたカップルと目が合った。
    智明と彼女だった。

    「あ・・・」



    智明が気まずそうに動きを止めた。
    彼女の方は百合香を無視し、すぐに席についてメニューを開いた。

    (何か・・・話したほうが・・・でも、もう何でもないんだから・・・)

    百合香は声をかけるべきか、かけるなら何を言ったらいいのか、動くことができずに立ち尽くした。

    「あー・・・、百合香のお友達ですか?」

    突然和馬が智明に話しかけた。

    「は、はあ・・・」

    智明は突然話しかけられて面食らったのか、間抜けな返事をして和馬を見た。
    和馬の弁護士バッチを見て少し驚いた顔をしている。

    「私、弁護士の黒木です。百合香とお付き合いさせてもらってます。よろしく」

    そう言って名刺を差し出した。

    「ちょっと!何言ってんのよ!」
    「自己紹介」
    「馬鹿!」

    百合香の大きな声は店中に響き、みんなが百合香たちに視線を注いだ。

    百合香は恥ずかしくなり、智明と目を合わせることなく、和馬を連れて店を出た。
    スタスタと駅に向かって歩き出す。

    「百合香ちゃーん、待ってよー」

    百合香は立ち止まると恥ずかしさと怒りで和馬を睨んだ。

    「何であんなこと言うのよ!」
    「君があの二人を恨んでそうだったからさ。察するに、男の方は君の元彼で、あのケバイ女の子に盗られたんだ。あたってるだろ?」
    「勝手なことしないで・・・!」
    「俺の正義が許さなかったんだよなぁ。百合香みたいな子を振ってあんな子と付き合うなんてさ」

    和馬は本気なのか嘘なのかわからない口調で言った。

    「あなた・・・弁護士にむいてないわ・・・」

    百合香は呆れて言った。こんなに強引で勝手なことをする男が、人の弁護をできると思えなかった。

    「うーん、それも初めて言われたなぁ。なかなか嬉しいね」

    百合香はがっくりと肩を落とした。この男と話していたら自分が悪者のような気がしてくる。

    (でも・・・私、少しスッキリしてる・・・)

    智明は法学部である。和馬が弁護士と知って驚いた様子を見て、百合香は少しざまあみろという気持ちになっていたのも確かだった。

    「俺、女の子にあまり冷たくされたことないから、百合香に罵られるとグッときちゃうんだよな」

    和馬は真剣な顔をしてそんなことを言った。

    「変な人」

    百合香は声を立てて笑った。
    和馬は目を細めて百合香を見つめると、さあ、ご飯食べに行こうと言った。




    和馬が連れていってくれた中華料理店の料理の美味しさに、百合香は感激し、何度も笑顔を見せた。

    「やっぱり、大人はおいしいお店良く知ってるのね」
    「あのさ、俺を大人と思うのやめてほしいんだけど。自分では君らと大して変わらないと思ってるんだから」
    「それは無理があると思う」

    ふて腐れる和馬をチラと盗み見る。
    かこいいからだけではない、やはり大人の男のオーラがあると百合香は思った。

    「百合香はさっきの彼のこと、まだ好きなの?」

    和馬は人生相談にのるような、兄のような調子で尋ねた。

    「好きじゃないけど・・・」

    傷が癒えていないのは確かだと思う。百合香は常に心にある疑問を和馬に投げかけてみた。

    「大人になったら・・・その・・・感情のコントロールもうまく出来るようになるのかな・・・」

    百合香の言葉に和馬は少し驚いたようだった。

    「感情のコントロールねえ・・・。そんなの、何歳になってもできないんじゃないの?」「うまく自分の気持ちに折り合いつけてる人はたくさんいるわ」
    「日常的なね、社会人としてのルールに乗っ取って気持ちをセーブしてる人はたくさんいるよ。でも、恋愛感情はまた別だと思う。好きな気持ちを自分の力でねじ伏せるなんて、大人だからってできるわけじゃない」

    そういうものか・・・と百合香は思った。そうすると、いつまでたってもこの傷は癒えないのだろうかと不安になる。

    「好きなら好きでいたらいいじゃない。誰かにやめろって言われてやめられるものじゃないし。そのうち、時間とともにそれも薄れて、すっかり忘れられる時が来るさ」

    (好きなら好きでいたらいい・・・か・・・)

    智明が好きだった。その気持ちを無理やり抑えつけて今まできた。
    友達にも早く忘れて、次へ進めとしか言われなかった。

    しかし、和馬はそのままでいいと言う。無理に忘れる必要はないと・・・。

    「そうね。すっかり忘れられる時が来るのを、待つことにするわ」
    「そうそう。恋の切なさが女性を綺麗にするんだ。とことん切なくなったらいいよ」

    百合香は変なアドバイスをする人だなと笑った。

    「俺、こう見えてもけっこう忙しいんだけど、たまにご飯食べに行ってくれる?」
    「彼女、いないの?」
    「いないから言ってるんだよ。時間取れないから、がっつり真剣に付き合うってなかなか難しくて。たまにご飯一緒に食べてくれる子がいたらそれでいい」
    「いいけど・・・もちろん、おごりよだね?」
    「もー。そういうこと聞いたらだめだよ。おごるよ!おごるけどさ!」
    「だってお金ないもん」
    「わかった。わかったから、もっとロマンチックな返事をしてよ。『私でいいの・・・?』とか恥らいながら言うとかさぁ」

    百合香は笑った。一人っ子の百合香にとって、和馬は歳の離れた兄のようだった。


    こうして二人の’友達関係’が始まった。



    和馬は忙しいといいながら、一週間のうち、一度は百合香を誘った。
    遊ぶ時間は無理やり作るものだと言っていただけに、睡眠時間を削ってでも遊んでいるようだった。

    食事に行くことが多かったが、カフェや図書館で百合香がレポートを書く傍ら、和馬も仕事をしたり本を読んだりして過ごすこともあった。

    「和馬、何読んでるの?」

    真剣な顔で本を読んでいる和馬に話しかけた。

    「んー?『サバンナの生活』」
    「・・・全然仕事と関係ないじゃない」
    「休みの時ぐらい全然関係ない本を読みたいよ」

    和馬はため息をついて言った。和馬は百合香と会っていない時は本当に忙しいようだった。メールも夜中に届くことが多い。
    そんな生活なのに、貴重な休みの日を自分と過ごしていていいのだろうかと百合香は思う。一人でゆっくりしたり、他の友達と会いたいと思うこともあるに違いなかった。

    「あのさ、休みの時に私なんかと過ごしてていいの?一人でゆっくりしたいとか、あるでしょ?」

    百合香は気になっていることを聞いてみた。
    和馬は読んでいた本を閉じて言った。

    「一人でいると仕事しちゃうんだ。実際に仕事しなくても、頭の中では気になってる案件のこと考えちゃうし。友達と会うと死ぬほど飲まされるから次の日辛いし・・・。百合香と会うのが一番丁度いい」

    一番丁度いい・・・。百合香は心の中で微笑んだ。
    和馬と会うのは楽しいし、落ち着く。いつしかそう思うようになっていたからだ。

    「百合香は?つまんない?」

    和馬が何気なく質問し返す。
    百合香は少し焦って答えた。

    「そ、そんなことないけど・・・」
    「うん?」

    和馬はニヤニヤして追求する。百合香も自分といて落ち着くと感じているのを知っていてわざと聞いているのだ。

    「たまにはどっか行きたい」

    百合香は誤魔化すために思わずそう答えた。

    「どっかって、どこ?」
    「わからないけど・・・どこか」

    和馬は何だソレと言って笑ったが、何やら考え始めて黙ってしまった。

    「和馬?」
    「・・・よし、じゃあ、次はドライブに行こう」
    「え?」
    「行き先はそれまでに考えておいて」
    「和馬、車持ってるの?」

    和馬と会うようになって3ヶ月ほど経つが、車に乗ってくることなどほとんどなかった。
    「持ってるよ。全然乗ってないけど、実家にある」

    和馬とドライブ・・・。
    百合香は急に嬉しくなって微笑んだ。

    「車で’どこか’へ行く。それでどう?」
    「うん!」

    百合香の素直な喜びに、和馬も微笑んだ。
    早速どこに行こうかなと考え始める。こんなにウキウキした気分になるのは久しぶりだった。

    百合香は無意識に、少しずつ和馬との距離を縮めていっていた。


    百合香は次の休みの日が待ち遠しい気持ちで過ごしていた。

    「百合香・・・!」

    キャンパスを歩いている時だった。突然声をかけられて振り向くと、智明がそこにいた。百合香は驚いて智明を見つめた。智明は何やら深刻そうな顔をしている。

    「・・・・何?」

    百合香は周りを少し見回して智明の彼女がいないことを確認した。

    「この前のあいつ・・・」
    「え?」
    「この前の、あの、黒木って人・・・」

    百合香はカフェでの一件を思い出した。
    智明は百合香と和馬が付き合っていると思っているに違いなかった。

    「やめた方がいいと思うんだ・・・。百合香とは・・・合わないと思う・・・」

    智明が訥々と話す。

    「何でそんなこと・・・」
    「百合香にはもっと・・・なんていうか、真面目な・・・」

    そこまで言われて、百合香の心の中で智明に対する嫌悪が生まれた。

    「何であなたがそんなこと言うの」

    和馬の何を知っているというのだろう。少しふざけたところはあるが、仕事も真面目にしているし、百合香にはとても優しい。

    「女の人と歩いているところを見たんだよ。その・・・仲良さそうに・・・」

    智明は言いづらそうな様子で話した。
    智明の話を聞いて、百合香の胸がギュ・・・と締め付けられる。

    「・・・私、あの人の彼女なわけじゃないから・・・。誰と歩こうと、彼の自由だわ」

    そう言いながらも、百合香の心は痛かった。
    和馬なら自分以外にも女友達はいくらでもいるだろう。それでも、忙しい中時間を作って会っているのが自分だけではないことがショックだった。

    智明はそうなんだと、少し安心したような顔をした。

    百合香は少し冷めた目で智明を見つめた。

    自分はこの男を何故あんなにも忘れられないでいたのだろう・・・。
    もう、今の百合香にとって智明は恋の対象ではなかった。
    あんなに好きだった智明の魅力的な部分を思い出すことができない。

    「ごめん、僕がこんなこと言える立場じゃないのに・・・」

    智明は申し訳なさそうにそう言った。智明は良心を持って百合香を心配してくれたのだ。それはわかるが、百合香は余計なお世話だとしか思えなかった。自分が受けた傷を、この人は理解していない・・・。だからこんなことが言えるのだ。

    「そうね。あなたが心配する必要ないわ。自分のことは自分で決めるから」

    百合香は遠まわしに’あなたは関係ない’と智明を突き放した。
    もう智明を想って切なくなることはないだろう。百合香はそう確信した。

    何か言いたそうな智明に背を向け、百合香は去っていった。


    ドライブの日。

    和馬はシルバーのレクサスの乗って登場した。
    自然がある所という百合香のリクエストに応えて、和馬は奥多摩へと車を走らせた。

    百合香はあんなに楽しみにしていた和馬とのドライブだったが、智明の話が頭から離れず、浮かない顔をしていた。

    「百合香、どうしたの?元気ないけど」

    和馬が気にかけて質問する。

    「ううん・・・何でもナイ・・・」
    「あー。わかった。お腹すいてるな?ちょっと後ろにある袋をのぞいてごらんなさい」

    和馬に言われて後部座席にある手さげ袋を手に取って中を覗いた。
    籠のようなものが入っている。

    「何これ?」
    「フフフ・・・何だと思う?ちょっと開けてみて」

    そう言われて籠のふたを開けてみる。

    「これ・・・!お弁当!?」

    おにぎりと玉子焼き、から揚げが綺麗に並べられ、パセリとプチトマトまで飾ってある。
    「和馬特製のお弁当さ!どう?驚いた?」
    「和馬が作ったの?」
    「そうだよ。頑張ったんだから」
    「すごい・・・」
    「奥多摩湖に着いたら食べよう。もう少し我慢してね」

    もう一つの箱にはりんごと葡萄まで入っている。
    ただでさえ忙しいのに、早起きしてお弁当まで作って持ってきてくれたのだ。
    百合香が楽しみにしているのを知って、もっと喜ばせようと思って頑張ってくれたのだ。
    百合香は浮かない顔のままだった自分を恥じた。嬉しさと申し訳なさで涙が出そうになる。

    「和馬・・・ありがとう」

    百合香は素直にお礼を言った。
    和馬は少し照れて、いいえどういたしましてと笑った。

    和馬が他の人どどういう顔で、どんな話をして、どう過ごすのか・・・。そんなことばかり気にしていた。
    でも、そんなことを気にするより、今一緒にいる時間を楽しく過ごした方がいい。
    和馬はこんなにも自分のためにしてくれているではないか・・・。


    百合香の顔に笑顔が戻った。



    奥多摩湖に着くと、和馬は腹へった〜と言ってすぐにお弁当を食べることになった。
    湖畔を眺めながら和馬の手作りのお弁当を食べる。
    和馬といろいろな店で食事をしたが、今日が一番美味しいと百合香は言った。

    「今度は百合香の手作り弁当が食べたいなぁ」
    「・・・私、和馬みたいに上手に作れる自信ない」

    百合香の母は料理好きでとても上手い。
    それに甘えて、自分で作ることはほとんどなかった。

    「好きな男のために頑張って作るってことに意味があるだろ?」
    「好きなって・・・」

    ドキリとした。和馬を見るが、その横顔はいつも通りで、特に深い意味はないといった様子だった。
    どういうつもりでそんなことを言っているのか、百合香にはわかりかねた。

    「少し歩こう」

    お弁当を食べ終わると、和馬がそう言って立ち上がった。
    百合香を立ち上がらせようと手をとる。和馬はそのまま百合香の手を離さなかった。

    初めてつないだ和馬の手は大きくて温かかった。ゴツゴツした手が男らしさを感じさせ、百合香の鼓動が早くなる。

    恥ずかしさで思わずうつむく。和馬は何も言わなかった。
    二人とも黙って湖畔を歩く。

    百合香はそっと和馬の横顔を盗み見た。
    いつもと同じ表情。照れている様子もない。

    和馬の気持ちがわからなかった。彼女はいらない、たまに遊べる友達として百合香は選ばれたはずだった。
    はっきりと好きだと言われることもない。ただの友達としか思っていないに違いなかった。

    (友達って・・・手つなぐのかな・・・)

    和馬の手から伝わる温もりに、百合香の胸は締め付けられる。
    和馬は何を思っているのか、自分はどうしたいのか・・・。わからなかった。
    この先の関係に進もうとして、傷つくことになったらと思うと怖くて足が止まる。

    静かだった。青い空と緑に囲まれた美しい湖に澄んだ空気。

    (今、この瞬間がずっと続けばいいのに)

    和馬との静かで穏やかな時間は、この上なく心地よかった。

    湖を見ながら、もう自分の気持ちを抑え付けることはできないと、百合香は思ったのだった。


    「百合香、黒木さんとデートしてるらしいね〜。なんでずっと秘密にしてたの?」

    亜紀と二人で久しぶりにランチを食べている時だった。

    「デートっていうか・・・。たまにご飯食べにいくぐらいだよ。ただの・・・友達」

    百合香はいろいろ聞かれる前に自分から『友達』と言った。
    そんな百合香を見て、亜紀はため息をついた。

    「あのさぁ、百合香って、なんでそうやって私と距離置こうとするの?」
    「・・・え?」

    亜紀は少し怒っているようだった。突然そんなことを言われて、百合香は少し面食らった。

    「百合香にしてみたら、頼りないと思うよ。勉強も百合香ほどできないし、コンパコンパ騒いで浮かれて見えると思うけどさ」
    「そんなこと、思ってないよ」

    百合香は慌てて言った。

    「あの百合香が男の人とデートしてるって、きっと特別な人なんだろうなって思って、私嬉しかったんだよ。百合香に好きな人ができたら、応援するってずっと思ってたんだから」

    亜紀の表情は真剣だった。確かに恋愛に関して、百合香は人よりも奥手だった。積極的なみんなを見ていると気後れしてしまう。
    亜紀にとってはそれがもどかしく、心配でもあったのだ。

    百合香の胸が熱くなる。

    「亜紀・・・」
    「好きな人できたら、誰かとその人の話するのって楽しいじゃない?」

    実際、百合香は和馬への想いを誰にも話せないで煮詰まっていた。
    亜紀が手を差し伸べてくれたような気がした。
    胸の中のもやもやした気持ちを誰かに聞いて欲しかった。

    「私・・・あの人のこと、好きみたい・・・」

    百合香は思い切って口にした。
    口にした途端、和馬への想いが溢れ出す。

    (和馬が・・・好き・・・)

    好きだけど、傷つくのが怖い・・・。

    百合香は正直な気持ちを亜紀に話した。
    亜紀は百合香の頭をよしよしと撫でた。

    「うんうん、そうだね。でも、好きってそういうことだよ。良かったね、百合香」

    亜紀はもっと話聞かせてと言って微笑んだ。
    亜紀の本当の姿を見ていなかったことに気付かされる。彼女は自分よりずっとしっかりしていた。

    百合香は初めて心を開き、長い時間をかけて亜紀に和馬の話をした。


    その日の帰りだった。和馬から電話がかかってきた。

    「もしもし?」
    「今学校?今日ちょっと早く終わったから、今から何か食べに行こうよ」
    「うん・・・!」

    今日は珍しく仕事で車を使ったので、車で大学の近くまで来てくれるという。最寄の駅で待ち合わせをした。

    和馬への想いを認めてから初めて会う。今までとは全く違った気持ちだった。
    妙に緊張して落ち着かない。

    駅に着く。見覚えのあるレクサスだった。
    和馬が運転席から降りる。

    「・・・・・?」

    続いて女性が助手席から降りてきた。
    白い上下のスーツを着た、綺麗な女性だった。
    和馬と何か話してから、手を振って去っていった。

    ショックだった。あんなに楽しかったドライブ・・・。自分が座っていた場所に、他の女性が乗っていたことが単純にショックだった。

    立ちつくす百合香に和馬が気がついて手を振った。

    「百合香!こっちこっち」
    「うん・・・」

    百合香は無理に笑い、手を上げた。
    和馬に乗ってと促されて助手席に座る。
    香水の匂いが漂う。きっとあの女性の香りだろう。

    「あの・・・さっきの人は?」
    「ああ、職場の同期。この近くで打ち合わせがるっていうから、ついでに乗せてあげたんだ」

    和馬は何てことないといった風に言った。

    きっと本当にただの同期で、深い関係ではないのだろう。それでも嫌だという気持ちが渦巻く。

    百合香は胸が締め付けられた。
    自分はあの女性に嫉妬している・・・。

    「・・・百合香、どうしたの?」

    百合香の様子がおかしいことに気付いた和馬は、発進させようとした車のエンジンを止めた。

    「気分でも悪い?」

    和馬が優しく問いかける。
    百合香は耐え切れず、涙を流した。パタパタと手の甲に涙が落ちる。

    「百合香・・・」
    「私・・・」

    和馬への想いが溢れ出し、苦しいほどだった。
    百合香は震える声で言った。

    「私、和馬が好き・・・。和馬のこと考えると・・・胸が苦しくて・・・・」

    涙で声が詰まり、先を続けることができない。
    和馬が自分をどう思っているのか、もはやそこまで気がまわらなかった。
    ただ和馬が好きだという強い気持ちがそこにあった。

    百合香は声を殺して泣いた。和馬が好きだ。自分でもどうしたらいいのかわからないほどに・・・。




    和馬はそんな百合香を見て優しく微笑んだ。

    「・・・どうして泣くの?」
    「わからない・・・」

    百合香は頭を横に振った。
    和馬が手で百合香の頬を包み、涙を拭いた。

    「嬉しいよ」

    和馬が優しく囁いた。
    百合香は濡れた瞳でじっと和馬を見つめる。

    「・・・迷惑じゃない?」
    「迷惑?そんなことないよ」

    百合香は和馬の言葉に少しホッとして表情を緩めた。

    「胸が苦しい・・・なんて、グっとくる告白だなぁ」

    和馬が嬉しそうに言った。
    百合香は恥ずかしくて顔を赤くした。

    和馬が百合香の手に手を重ねる。

    「和馬・・・」
    「俺も好きだよ」

    和馬の言葉が流れるように自然だったので、百合香は思わず聞き返した。

    「好きって、私のは友達の’好き’じゃないよ?」

    真剣な百合香の表情を見て和馬は笑った。

    「もう!何で笑うの?」
    「ごめん。わかってるよ。男として’好き’だろ?」
    「・・・うん」

    男と言われて、ドキリとした。和馬を’男’だと強烈に意識する言い方だった。

    「友達だなんて思ったことない」
    「え?」

    見ると和馬の目はいつになく真剣だった。いつものからかうような雰囲気はなかった。

    「百合香のこと、友達だなんて思ったことないよ」

    心臓がドキドキと鳴る。和馬に聞こえるんじゃないかと余計な心配をした。
    目の前の和馬は本気に違いなかった。

    「私・・・なんていうか・・・大人の付き合いっていうか、適当な付き合いって、できないよ?」
    「どういうこと?」
    「和馬、忙しいから彼女いらないんでしょう?」

    和馬はその言葉で百合香の気持ちを理解したようだった。

    「あれは・・・そう言った方が百合香が警戒しないかなと思ったからで・・・。そんなこと気にしてたのかぁ」

    和馬は失敗したな、などと言いながら嬉しそうに笑った。

    コホン、とわざとらしく咳払いをして、百合香の手を取った。

    「じゃあ、ちゃんと言うよ。・・・俺の彼女になってください」

    ふと、和馬が動き、視界が影で暗くなる。
    和馬の唇が百合香の唇に重なり、すぐに離れた。

    「これでどう?信じた?」
    「和馬・・・」

    彼女になってくれと、今確かに言った。すぐに離れたが、和馬の唇の感触も残っている。
    百合香は胸がいっぱいになり、再び目に涙を溜めた。零れ落ちないように我慢する。

    「うん・・・!」

    和馬が腕を広げる。飛び込んでこいといわんばかりに大げさに胸を突き出した。
    百合香は笑って和馬に抱きついた。

    和馬の胸にしっかりと抱きしめられ、百合香は大きな安心感を感じて目を閉じた。

    好きな人に想いが通じた安心感につつまれ、心が温かくなる。

    (和馬・・・大好き・・・)

    百合香の気持ちはまっすぐ和馬に向かっていた・・・。




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