明日に架ける橋


  • 有坂花憐は一通の手紙を震える手で急いでポケットに仕舞い込んだ。

    いつも郵便受けをチェックするのは、かつて父の内縁の妻だった貴子の仕事だったが、貴子は一昨日から
    恋人と出かけたきり戻ってきていなかった。
    貴子は自分の娘の聖子や息子の晴彦に、郵便物を花憐にチェックさせないよう言付けていたに違いないが、
    二人がその通りにするはずはなかった。

    晴彦に郵便物が溜まっていると伝えると、お前が取りにいけと言われたので、花憐はそれに従ったまでだった。

    そこで目にしたのが、結婚式の招待状のようなしっかりした紙質に、綺麗な字で花憐の名前が書かれている
    手紙だった。

    「鴻池 文子」

    差出人の名前を見て、花憐はハッとした。

    (文子伯母様だわ・・・)

    その場ですぐにでも開封したかったが、誰かに見られたらすぐさま取り上げられ、燃やされてしまうだろう。

    花憐は表情を戻して、急いで家の中へ入った。
    玄関の大きな扉を開けると、晴彦が立っていた。
    ホットドッグをむしゃむしゃと食べている。

    思わずドキリとする。しかし、ここで変な態度を取ったら、疑われてしまう。
    花憐はすぐに郵便物を晴彦に渡した。

    「これだけか?お前宛に来たものはないだろうな」
    「ありません」

    花憐は平静を装ったが、晴彦がじろじろとやたら見つめるので、内心手紙がばれるのではないかと
    ビクビクしていた。

    「カフェオレをお持ちしましょうか」

    花憐は台所に向かおうとしながら言った。
    晴彦は部屋に持ってこいと言って二階へあがっていった。

    花憐は台所へ行くと、ホッと小さくため息をついた。

    コーヒーの缶を取り出す。
    気持ちが落ち着かず、そわそわしてしまう。

    早く手紙を読みたい。

    しかし、ここで焦ってはだめだと言い聞かせた。
    夜、みんなが寝静まった時に読もう。

    花憐は冷蔵庫からミルクを取り出した。


    花憐が暮らす家は、東京の府中にあり、自然に囲まれている大きな古い洋館だった。
    祖父の時代からあるこの家は古いながらも趣きがあり、父も母も、花憐もとても気に入っていた。
    庭はさほど大きくないが、いろいろな種類の花や草木が植えられ、鳥や蝶がやってくる。

    幼い頃は庭で父と良く遊んだことを思い出す。
    しかし、記憶は最早鮮明ではなく、古く擦れたフィルムで見る映画のようだった。

    母は花憐が8歳の時に病気で亡くなった。もともと体の弱かった人のようで、花憐を産んでからというもの
    更に体調を崩すようになっていた。
    優しく、美しかった母の一番強く残っている記憶は、ベッドで横になっている姿だった。

    それでも調子の良い時は一緒にお菓子を作ったり、絵本を読んでくれたり、散歩に出かけたりもした。

    そんな母を、父はとても愛していた。

    外交官として働いていた父は、忙しい人ではあったが、時間がある時は母や花憐と一緒に過ごし、
    どこかへ連れていってくれたり、得意料理を振舞ってくれたりした。

    三人で庭に寝転んで昼寝をするのが花憐は大好きだった。
    木陰にシートをひいて、お茶をしながらのんびりする。母がうとうとした横で花憐もうとうとする。
    父が毛布をかけてくれる。

    一番幸せな時だった。

    母を失った父の姿は、傍から見ても痛々しいほどだった。
    仕事に没頭し、食事も睡眠もまともに取ろうとしなかった。
    酒を飲む量が増え、タバコの本数もぐっと増えた。
    母が迎えにくるのを待っている。そんな感じだった。

    時折、花憐が眠っていると、枕元に来て泣いていた。
    花憐は気付いてはいけない気がして、寝たふりをしていた。

    大きな瞳に、血色の良い艶やかな唇、綺麗な形の鼻・・・。
    母にそっくりの花憐を見ていると、父は母を思い出さずにはいられないのだった。

    花憐自身、母を失った悲しみはもちろん大きかったが、父の姿を見ていると、自分が元気づけてあげなければ
    いけない気がして、花憐はいつも陽気に振舞った。

    父は2、3年ごとに海外駐在と日本での職務を繰り返しており、母がいなくなってからもそれは同じだった。
    母がいたころから働いていたお手伝いさんとの暮らしは寂しかったが、寂しいと漏らしたことは一度も
    なかったし、学校の成績は常に一番を取ってきた。運動は苦手だったが、それも頑張った。

    父は花憐の話を微笑みながら聞いてくれたが、その瞳はいつもどこか悲しげだった。

    それでも花憐は父がいてくれれば良いと思えた。
    大好きな母がいなくなり、これ以上父を失ったらと、子供心に常に恐怖心を抱えていたのだった。


    花憐が中学生になると、ある日を境に父が一人の女性を家に連れてくるようになった。
    それが貴子だった。
    貴子は決して美人ではなかったが、少し垂れて、黒目がちな目が優しい印象を与えた。

    花憐をとても可愛がってくれたが、貴子にはどこか嘘くさい部分もあって、思春期の真っ只中であった
    花憐は貴子に懐くことはなかった。

    父は貴子を本当に気に入っていたのか、今も良くわからない。
    貴子が父の心の隙間に漬け込んだのだと思う方がしっくりくる。

    それでも、貴子と一緒にいる父は少し安らいでいるように見えた。
    花憐は父のことが好きだったけれど、中学生になると、小さい頃のように父にべったりということも
    なくなっていた。

    貴子が献身的に父に尽くしてくれることが、少なからず嬉しかったのかもしれない。
    花憐としても、自分が母の代わりをと懸命になってきただけに、その役割から解放されるという
    安堵感も正直なところあったのだった。


    結局、貴子は花憐と父の暮らす家に転がり込んできた。どういういきさつか詳しいことは知らないが、
    貴子が押したに違いなかった。
    父は花憐の意見はあまり聞こうとしなかった。ただ、法的に結婚するつもりはないとだけ告げた。

    貴子には二人の子供がいた。その子供を連れての同居生活が始まる。

    花憐と同い年の聖子と二つ下の晴彦。

    「よろしくね」

    花憐がにっこりと笑いかけると、聖子はギロリと睨んで言った。

    「ブス」

    当時から太り気味だった晴彦は、用意されたケーキを花憐の分まで食べていた。

    最初からこの二人とは仲良くなれなかった。

    母親にそっくりで美人とは程遠い顔の聖子だったが、化粧や着飾ることが大好きで、いつも派手な格好を
    して出かけている。
    成績は悪いが、そのことを気にする様子もなく、父からもらう小遣いで好き勝手に遊んでいた。

    晴彦は不登校児で、家に引きこもっていた。
    ゲームやパソコンを一日中部屋でやるという生活は、この家に来てから今まで変わっていない。

    二人とも花憐のことが気に入らず、親の見ていないところで花憐をいじめて楽しんでいた。

    それでも、父がいる間は良かった。父の前では貴子も子供たちも花憐と普通に接していたし、花憐も物や
    お金は人並みに与えられ、不自由なく暮らせたからだ。

    しかし・・・。

    花憐が16歳の時に父が心筋梗塞で倒れた。それまでも心臓が原因で通院をしていたが、意識を失ったのは
    初めてだった。

    一時は意識が戻って、話ができるほどに回復したものの、手術を受けることになっていた前日に再び意識が
    なくなり、そのまま帰らぬ人となった。花憐を守るものは何もなくなってしまった。

    貴子の態度は豹変した。

    それまでいたお手伝いさんは即解雇され、花憐が家のことをするように命じられる。
    掃除、洗濯、炊事・・・。
    学校へ行きながら、家中の用事をさせられた。

    花憐に小遣いなど与えず、食事もまともに食べさせなかった。風呂は三日に一度。それは今も変わっていない。

    エスカレーター式の学校だったから、高校は卒業させてもらえたが、小遣いが与えられないため、
    友人と遊びにもいけず、家の用事もあるから学校が終わるとすぐに帰宅しなくてはいけない。

    まともな弁当を持参できず、使い古したものばかりを使う花憐は、クラスでも浮くようになり、友達と
    呼べる人は一人もいなかった。

    そのまま卒業し、就職もしないまま、今は有坂家の召使のような生活をしているのだった。

    貴子は花憐を近所の商店街以外に買い物に行かせなかった。その際も、自分か子供たちが同行する
    徹底ぶりだった。電話にも出させないし、郵便物にも触れさせない。

    それには大きな理由があった。

    貴子は内縁の妻にあたるから、遺産相続の権利はない。

    貴子がどんなに押しても、父は法的に結婚することはせず、貴子は家に転がり込んできたときは既に
    40歳近くになっていたが、なんとか父の子を妊娠しようと必死だったようだ。

    結局、貴子が父の子を妊娠することはなかった。

    父が倒れ、意識もままならない状況の中で、貴子は自分に財産の多くを与えるような内容の遺言状を
    書かせようとしていた。

    父親も母親もいなくなった花憐がまともな結婚ができるはずがない、跡継ぎの期待できない花憐に
    そんなに多くの財産を残してどうする、といったことや、これまで尽くしてきた自分に何も残さない
    つもりか、など、毎日父の枕元で貴子は説得を続けた。

    父は付き合いの長い弁護士を呼び寄せ、貴子立会いのもと遺言書を作成した。

    花憐が24歳になるまでに結婚した場合は、有坂家の財産のほとんど、また、所有する土地全てを花憐に
    相続させ、財産の一部を貴子に譲る。

    24歳になるまでに結婚できなかった場合は、花憐が子として受け取る遺留分の財産を除き、その
    3分の2と府中の家を貴子に、残りはチャリティー団体へ寄付し、所有するその他の土地と建物は
    国へ寄付する。


    もともと、花憐の母が資産家の娘で、多くの財産を持って父と結婚した。
    花憐が全て相続して当然なのだが、貴子がそれを許すはずなどなかった。財産目当てで父に近づいたのだから、
    貴子としては根こそぎ自分のものにしたいところなのだ。

    24歳という馬鹿げた年齢制限は貴子がつけさせたに違いなかった。

    貴子は花憐を結婚させないように必死なのだ。たとえ花憐が24歳までに結婚したとしても、財産の一部は
    貴子のものになる。何千万円と入るのだが、貴子はそれでは満足できないのだった。

    花憐も、ただ黙って過ごしてきたわけではない。
    何度も家から逃亡を図ったし、財産などいらないから自由にさせてくれと談判したこともある。

    しかし、どんなに逃げても貴子は花憐をつかまえたし、財産などいらないという言葉を信じる様子も
    まったくなかった。

    そして、花憐が20歳の時に、貴子は信じられないことをしたのだった。
    台所で食事を作っていた可憐に、揚げ物を揚げるために熱していた油をわざと花憐にかけたのだった。

    花憐は咄嗟に顔を手で隠し、身をよじったが、右腕と右胸にかけて深い火傷を負った。

    病院に運ばれ、貴子は半狂乱を演じて、事故だったことを説明した。
    それは花憐の体に傷をつくって、嫁に行かせないようにするための行為だった。

    花憐は貴子にやられたのだと主張するのをやめた。
    貴子が証拠を残しているとは思えなかったし、主張したところで、後の報復を恐れたからだ。

    火傷を負った自分の体を見て愕然とした。

    母ゆずりの真っ白な肌は、外出を禁止されてからいっそう白くなっていたが、その白い肌に赤紫色の
    火傷の跡が右の鎖骨の下あたりから右胸全体に広がっている。

    右腕は更に深い跡になっており、二の腕から肘の下まで別の生き物の皮を縫いつけたようであった。

    自分でも目を背けたくなる光景だった。
    火傷の跡は時間とともに薄くなっていったが、消えることはなかった。
    胸に広がる茶色く変色した皮膚は花憐を落ち込ませるには十分だった。

    寒かったり疲労が重なると引き攣れて痛くなる右腕も同じだった。

    貴子の思惑は成功したといえる。
    花憐はこんな体で自分を嫁にもらってくれる人などいるはずがない・・・。

    それ以来、花憐は逃亡することをやめ、従順に貴子たちに尽くすようになった。
    24歳になったからといって、貴子が自分を自由にさせるとも思えなかった。
    花憐が受け取る遺留分の金を、どうやって花憐から奪おうかと虎視眈々と狙っているに違いない。
    もしかしたら晴彦と結婚でもさせようと考えているかもしれなかった。

    24歳になるまで、あと3ヶ月と迫っている。
    貴子は指折り数えているだろう。最近はやたらと機嫌が良い。

    そんな時に届いた伯母からの手紙だった。
    文子は父の歳の離れた姉で、花憐の父同様外交官である鴻池という男と結婚し、今は世田谷の大きな屋敷で
    暮らしている。
    花憐も、まだ母が元気だった頃に父と三人で遊びに行ったことがあった。

    文子は子供好きで、自分の子供は男の子ばかりだったから、女の子の花憐をとても可愛がってくれた。
    また、文子と母は気が合い、とても仲が良かった。二人は姉妹のようだと父が良く言っていた。

    しかし、母がいなくなり、父の生活が乱れ始めると、徐々に疎遠になっていった。

    貴子と暮らし始めてから、一度だけ文子は夫と訪れたことがあったが、文子が貴子と言い争っていたのを
    花憐は良く覚えていた。

    貴子が花憐の母のものを全て処分したことがきっかけのようだったが、その時の争いを最後に、文子が
    自分の実家でもあるこの家を訪れることはなくなり、連絡も一切よこすことはなかった。

    貴子にこの手紙が見つかったら、どんなことになるか・・・。

    夜になり、花憐は自分の狭い部屋に戻ると、窓辺に寄った。
    電気を使わせてもらえないので、月明かりで読むしかないのだった。

    ポケットの中でくしゃくしゃになってしまった手紙のしわを、花憐は丁寧に手で伸ばした。

    心臓がドキドキと高鳴る。
    意を決して封を開けた。

    『有坂花憐様

    いかがお過ごしでしょうか。
    長い間、連絡することなく過ごしてしまったことをお許しください。
    あなたのことを気にかけていましたが、なかなか連絡を取る勇気が湧かずにいました。
    ごめんなさいね。

    私の近況といたしましては、一昨年夫を亡くし、今は足を悪くして一日中家の中で過ごしております。
    息子たちは皆元気に過ごしております。あなたが好きだった犬のロペも、老犬ながら元気にしております。

    さて、突然のお誘いで申し訳ないのですが、来る10月23日に、我が家で音楽会なるものを開きます。
    大層なものではなく、気心知れた仲間たちが集まって、音楽を聴きながらお酒を飲んだり会話を楽しむだけの
    会です。

    ぜひあなたにも参加していただきたいと思っています。
    若い方も大勢いらっしゃいますから、あなたにとって良い出会いをもたらしてくれるのではと思っております。

    今まで何の連絡もせず、急にこんなお誘いをしてあなたは気分を悪くするかもしれませんね。

    年老いて、歩くこともままならなくなり、夫や、父、母、あなたのお父様やお母様のいるところへ行くのも
    近いのだと安らかな気持ちになる一方、唯一気がかりなのはあなたのことです。

    どうか一目でも、元気な姿を見せに来てくれないでしょうか。
    音楽会は19時からですが、あなたとゆっくりお話がしたいので、早めに訪ねてくれると嬉しいです。

    待っています。

    文子 


    花憐の胸の鼓動は、手紙を読み終わってもおさまることはなかった。

    何度も何度も手紙を読み返す。

    『あなたにとって良い出会いをもたらしてくれるのではと思っております。』

    この文章がひっかかった。

    伯母はおそらく相続の条件のことを知っているのだ。
    花憐に結婚相手を見つけてほしいと遠まわしに言っているのではないだろうか・・・。

    (結婚相手を・・・)

    花憐の心は嵐のように乱れた。
    事態は伯母が思っているほど簡単なことではない。

    まず、花憐が家を出ることが許されるのは、貴子が買い物を指示した時だけである。それも監視付きの。

    貴子が留守の時は比較的’警備’が緩いが、晴彦は一日中家にいるし、花憐が出かけないように
    見張るということだけは晴彦も聖子も必ずする。逃げられたら困るのは二人とも同じだからだ。

    買い物の隙をつくにしても、10月23日に貴子が買い物を指示するかどうか、花憐には操作することなど
    不可能なのだ。

    また、貴子が連れ込んでいる貴子の男が厄介な存在だった。
    岩田という名前のその男は、歳が若いのだけが取り柄といった男で、ただ単に貴子のヒモであり、貴子から
    もらう金でパチンコに行くのが生きがいのような男だった。

    貴子がこの若い男に毎晩のように抱かれ、狂った獣のような喘ぎ声が花憐の部屋まで聞こえてくる。
    貴子は性欲の処理のためにこの男を食べさせているだけだった。

    この男が厄介だというのは、’勘が鋭い’ところだった。何の勘かというと、花憐が逃げ出そうと
    目論んでいることを見破る勘が鋭いのだった。

    花憐は普段通りに装っているつもりなのだが、ちょっとした変化を感じて、先回りして駅で花憐を
    待ち構えていたり、意味もなく庭をうろうろしたりしていた。
    夜中、花憐の部屋の前にずっと座り込んでいた時もある。

    花憐がどこかの男と結婚されて困るのは岩田も同様だった。

    10月23日に、どうやって家を出るか・・・。

    もう一つの問題はお金だった。
    花憐はお金をほとんど持っていなかった。
    父が生きていた頃にもらって貯めていた貯金は貴子に全て取られた。

    買い物で預かる金をくすねていないか、定期的に貴子が部屋をチェックしにくる。
    ベッドとタンスと小さいテーブルだけの部屋を、嵐が襲ったかのように全てひっくり返して点検する。

    そんな状況下でも、花憐は天井裏にわずかなお金を貯めていた。家や庭の掃除の際に落ちていたのを
    見つけては地道に貯めていた。
    ちゃんと数えたことはないが、小銭ばかりで4千円にも満たないだろう。

    電車で伯母の家に行くのが一番安くすむが、今まで散々駅で見つかってきただけに、電車は利用しないほうが
    良いと思えた。

    タクシーを使って世田谷のおばの家へ・・・。

    果たして府中から世田谷まで、いったいいくらかかるのだろう・・・。

    花憐は頭を抱えた。

    この伯母からの誘いは、花憐の人生がかかっているのだ。
    失敗すれば、ひどい仕打ちが待っている。
    大人しく24歳になるのを待っていればよかったと思うかもしれない。

    これが最後のチャンスだということは、花憐には良くわかっていた。
    伯母のところへ行ったとしても、すぐに結婚相手を見つけることはできないだろう。
    まともな服も持っていない。音楽会には出席できないだろう。

    しかし、何もせずに過ごしているよりは、少しの可能性にかけてみたいと思った。
    まずは伯母のもとへ行くことで、何かが変わるように思えた。

    財産を貴子たちに取られることは、もちろん嬉しいことではないが、それよりもこの家を奪われることが
    花憐には辛かった。

    父と母と一緒に過ごした大事な家。花憐の人生の中で一番幸せを感じた頃の記憶が奪われてしまうことが
    何よりも辛かった。

    (この家を守れる最後のチャンスなんだわ・・・)

    母のものは全て処分されてしまった今、母が生きていた証であるこの家を守ることが花憐の使命と思えた。

    徐々に勇気が湧いてくる。

    花憐の瞳に強い意志が現れた。

    なんとしても伯母のところへ行こう。
    23日まではまだ二週間ある。ゆっくり考えて、慎重に行動しなくては。

    花憐は手紙を天井裏の奥へ隠した。



    「お前が郵便物を取りに行ったんだね?」

    貴子は家に帰ってくるなり、花憐を呼び出して鬼の形相で訪ねた。

    「晴彦さんにお願いしたのですが・・・」
    「言い訳しろと言ってない!お前が取りに行ったのか聞いてるんだ!」

    貴子は花憐の頭をバシン!と叩いた。

    「取りに行きました・・・」

    すかさず頬に平手が入った。

    「っ・・・・・!」
    「郵便物に触れるなと何回言ったらわかるんだ。この馬鹿者!」

    貴子は気の済むまで花憐を叩き、最後にはいつものように花憐の部屋へ行って、何か隠してないか
    探りはじめた。
    全てのものが投げ出され、何もないことを確認すると、花憐の部屋に鍵をかけた。

    それからというもの、貴子の監視は更に厳しくなった。
    買い物に花憐を行かせないようになった。

    あとわずかで遺産が入るというのに、花憐が最後の最後で何かしでかすのではないかと警戒しているのだった。

    花憐は内心焦っていたが、いつかチャンスが訪れると心の中で祈っていた。

    23日になるまで、監視は厳しくなるどころかいっそう強固なものになっていった。
    花憐のそばにはぴったりと貴子がついていたし、岩田は意味もなく庭をうろうろしていた。

    花憐は夜遅くなっても、伯母は受け入れてくれると信じ、日中訪れることはもう無理だと諦めていた。

    しかし・・・・天は花憐の味方をした。

    23日の朝9時を過ぎて電話がかかってきた。

    掃除する花憐を遠くから見張っていた貴子が電話に出る。

    「有坂でございます。・・・あら、まあ。お久しぶりです・・・・。ええ!?今からですか!?」

    貴子は驚いた声を上げたあと、満面の笑みで嬉しいですわ、お待ちしておりますと喜んだ様子で電話を切った。

    すぐに二階に向かって声を上げる。

    「聖子!晴彦!ちょっといらっしゃい!!」

    貴子の声に、まだ寝ていたであろう二人がしぶしぶ一階へと降りてきた。

    「何よ、こんな朝早く」

    聖子が気だるそうに言った。

    「急いで支度しなさい!一番良い服を着るんですよ。ああ、聖子は美容室へ行った方がいいわ。
    着物にしようかしら・・・」
    「何よ。何があるのよ。私昼から出かける約束あるんだけど」
    「そんな約束どうでもいいわ。今から桐嶋様がいらっしゃるのよ!ほら、お父様のご友人の」

    聖子が誰それ、と短く呟いた。

    桐嶋とは、外務省の大使である。父が生きていた頃は良く遊びに来ていたが、最近ほとんど訪れることは
    なかった。

    「オーストリアから帰国したばかりでね。うちに来て、お焼香させてほしいんですって。息子さんも
    連れてくるそうよ!ハーバード大学卒業して、外交官になられてね」

    それを聞いて聖子の顔が突如輝いた。

    「その息子、独身?顔は?」
    「もちろん独身よ!高校生の時に見たきりだけど、背が高くて綺麗な顔の男の子だったわ」
    「ママ!一番良い服を用意して!」

    聖子はバスルームへと走り、急いでシャワーを浴びは始めた。

    「晴彦!あなたも早く着替えて!」

    晴彦にとってはどうでも良い話だったようで、はーい・・・と気のない返事をして部屋に戻っていった。

    貴子はそわそわと落ち着かない様子で歩きまわり、自分も美容室へ行かなくてはと支度を始めた。

    「花憐!ちょっと!」

    貴子は花憐を呼ぶと、一気にまくし立てた。

    「私たちが戻るまでに家中の掃除を終わらせておきなさい。食事はケータリングサービスを使うからいいわ。
    あなたの不味い料理なんて恥ずかしくて出せませんから。それから裏庭のバラを全部取って家中に飾って。
    それから・・・・」

    花憐は、いちいちハイ、と頷いたが、心の中では逃げ出せるチャンスが来たという喜びと興奮でいっぱいだった。

    岩田をさすがに家に置いておくことは出来ない。貴子は岩田に1万円札を何枚か渡し、今日は申し訳ないけど
    外で過ごして欲しいと言って送り出した。
    岩田はチラと花憐を見たが、金を手にした喜びを顔に露わにして出ていった。

    貴子と聖子は二人一緒に美容室へとでかけるようだった。

    「晴彦、花憐が出ていかないよう、しっかり見張っていなさい。いいわね」

    そう言って出ていった。
    晴彦はすぐに部屋に戻るかと思ったが、掃除をする可憐にぴったりとくっつき、監視を緩めなかった。
    かなりしつこく貴子に言われていたのだろう。

    (どうしよう・・・。今がチャンスなのに・・・・)

    どうにかして晴彦の目を盗んで外へ出たかった。

    掃除に集中するふりをしてあれこれ脱出の手立てを考えていたが、晴彦は隙を与えなかった。

    そのうちに貴子と聖子が戻ってきてしまった。
    もうすぐ11時である。花憐の中に徐々に焦りが湧いてきた。
    掃除はなんとか終えて、バラを飾っていた時だった。

    「もういいわ。部屋に戻りなさい。部屋には鍵をかけるから、今日は部屋から絶対に出ないこと。
    出たらどうなるかわかっているわね」

    部屋に閉じこもって花憐は考えた。
    こうなったら、窓から脱出するしかない。
    客人たちが訪れたら、貴子の注意力も散漫になるだろう。

    花憐はひたすらその時を待った。
    ポケットにお金と手紙を入れて花憐はベッドに座った。

    車のエンジン音が間近に聞こえ、人の話し声がする。

    (来たわ・・・)

    花憐は耳をすまして階下の様子を伺った。
    貴子のわざとらしい甲高い声が聞こえる。

    一番上等な紅茶を用意しておけと言われたのだが、おそらく聖子が不慣れな手つきで紅茶の準備でも
    しているだろう。台所で何かが落ちる音がした。

    あと10分待ったら出よう。
    窓からの脱出は何度も試みたので、慣れたものである。
    雨どいに足をかけて、一回の出窓の屋根に飛び移り、あとは勢いよくジャンプして地面に降りればいいのだ。

    頭の中でシュミレーションしていた時だった。
    トントンとドアがノックされる。

    花憐はドキリとして咄嗟に立ち上がった。

    「はい・・・」
    「俺だ。早く開けろ」

    晴彦だった。いったいどうしたのだろうと花憐はいそいでドアに近づいた。

    「鍵をかけられて開けられません」

    花憐がそう言うと、チッと晴彦が舌打ちした。

    「今日中に送らなきゃいけないハガキがあるんだ。すっかり忘れてたんだ。駅前の大きい郵便局まで
    行ってきてくれ」

    花憐は歓喜の声を上げそうになるのを堪えた。

    「窓から出られるんだろ?郵便受けにハガキを入れておくから急いで行ってこい。すぐに戻ってくるんだぞ」
    「でもお義母さまが・・・」
    「僕が見張ってるから大丈夫だ。門も開けておく。とにかく今日中に行かないとまずい。今がチャンスなんだ」

    花憐はわかりました、と声が震えないように気をつけて返事をした。
    まさか晴彦がチャンスを与えてくれるとは思ってもみなかった。

    晴彦がドアの前を去るのを確認すると、花憐は音を立てないように窓を開けた。
    晴彦が走って郵便受けにハガキを入れるのが見えた。門の鍵を開けるとすぐにその場から離れた。

    家に戻る途中で、花憐の部屋を見上げる。
    花憐の姿を確認すると、頼むぞと軽く頷いた。

    花憐は胸をドキドキさせながら、窓枠にまたがった。
    ここで失敗したら全てが終わりだ。
    この先、こんなチャンスは二度と来ないだろう。

    一時的でも晴彦が味方をしてくれている。花憐は勇気付けられて窓から部屋を出た。
    もうこの部屋に戻ることはないかもしれない。
    急に寂しさを感じたが、今は感傷に浸っている場合ではない。

    花憐は慎重に地面に降り立った。

    晴彦は大丈夫と言ったが、油断してはいけないと、庭をぐるりと囲うように植えられた草木の裏に
    隠れながら門へ向かった。

    身を屈めて郵便受けからハガキを取り出す。
    なんとなくどこかで晴彦がその様子を伺っていることがわかった。

    花憐は門をわずかだけ開き、細い体をすべらせるようにして隙間から外へ出た。

    花憐はすぐさま走り出した。
    後ろを振り向いたら最後だといわんばかりに、一心腐乱に走った。

    岩田がおそらく駅前のパチンコ屋にいるだろうから、駅とは逆の方に向かって走った。
    大きな通りまで出て、タクシーを拾おう。

    薄汚れた白いシャツに、ヨレヨレの黒いスカート。ボロボロになった靴は走りにくく、裸足になった方が
    マシだと思われるほどだった。

    ポケットの中で小銭がジャラジャラと鳴る。
    花憐は落ちないように手でポケットを押さえた。

    気ばかり焦って、足がついていかない。足がもつれて何度も転びそうになる。

    (誰にも見つかりませんように・・・・!)

    そう願いながら走り続けた。

    ようやく大きな国道にたどり着く。
    タクシーはすぐに見つかった。

    花憐は全身で息をしながら運転手に行き先を告げた。

    「すみません、実はこれしかお金がありません。このお金で行けるとこまで行ってください」

    大量の小銭を差し出されて、運転手は面食らっていた。

    一緒に小銭を数える。4712円。花憐が思っていたよりも多かった。

    「これだと 登戸ぐらいまでしかいけないなぁ」
    「はい。そこまででいいです。そこからは歩きますから」

    運転手は花憐の切羽詰った様子に、何も言わずに頷いて車を発進させた。

    車が走り出してようやく後ろを振り向いた。
    誰かが追ってくる様子はなかった。

    それでもまだ緊張が取れることはなく、花憐は両手をぎゅうっと握り締めてじっとしていた。
    ふと気がつくと、晴彦に頼まれたハガキは手の中でぐしゃぐしゃになっている。

    伸ばして見てみると、何かの応募のハガキだった。
    フィギュアのプレゼントか何かだろう。おそらく今日が締め切りで焦っていたのだ。

    車中から外の景色を眺める。
    久しぶりに見る街の風景だった。

    府中を抜けると、ようやく花憐の緊張はほぐれていった。
    今頃、晴彦は焦り始めているかもしれない。もう花憐が戻ってきてもいい時間だからだ。

    しかし、おそらく晴彦は自分が外に出したことはすぐに打ち明けないだろう。
    客人が帰って、貴子が花憐の部屋に来て初めて騒ぎ出すのだ。

    貴子は相当狼狽するに違いない。何億という財産が逃げ出したのだから。

    花憐は文子の手紙の封筒に一緒に入れておいた名刺を取り上げた。
    遺産相続をとりもっている弁護士の名刺だった。

    もし結婚するとなったら、この弁護士に連絡をしなくてはいけない。
    この名刺は父からもらってずっと大切に保管していた。
    何度も見たから、名前も電話番号も住所も覚えてしまったが、お守りのような気がして大事にしていた
    のだった。

    たくさんの大きな建物が見え始める。
    運転手は、サービスしといたよ、といって割りと近くまで乗せてくれた。
    あと二駅ほど歩けば着くというところで降ろしてくれた。
    花憐はありがとうございましたと丁寧にお礼を言った。

    これで本当に一文無しだった。
    文子の屋敷まで急ぎ足で歩く。
    時間は4時を過ぎていた。
    少しでも早く文子のもとへたどり着きたかった。

    貴子が花憐の逃亡に気がついて、先回りしているかもしれない。
    屋敷の中に入ってしまえば、貴子とて花憐を無理やり連れ出すことはできないだろう。

    途中目に入ったポストに、晴彦のハガキを投函して、花憐は走った。
    住所を頼りに、道に迷いながら見覚えのある門構えの前に到着した。

    もう何年も美容室などいかずに、自分で切りそろえてきた黒く健康的な髪は、急いだせいで乱れていた。
    花憐は縛っていたゴムを外し、もう一度綺麗に髪を整えた。
    2日風呂に入っていないので、そこらじゅう汚れている気がした。

    それ以前に、こんなボロボロの服で伯母の前に現れていいものか迷ったが、ぐずぐずしていたら貴子に
    見つかってしまうという強迫観念から、花憐は門脇のインターフォンに手を伸ばした。

    一気に緊張が高まる。どうか追い返されませんようにと心の中で祈った。


    「はい」

    若い女性の声がして、慌てて名前を告げた。

    「有坂花憐と申します。文子伯母さまに会いに伺いました」
    「・・・お待ちくださいませ」

    花憐は辺りを見渡した。貴子らしき人物はいない。
    早く出てきて欲しいという焦りを堪えて、花憐はその場でじっと待った。

    しばらくして、一人の女性が外へ出てきた。大きな門の隣の、小さい門を開けて花憐を招き入れた。

    「お待ちしておりました。どうぞ」

    使用人らしきその女性は、花憐とそんなに歳が変わらないような気がした。
    門をくぐると、大きな庭が広がっている。
    小さい頃はこの庭で伯母の犬と遊んだことを思い出す。

    屋敷は確かに大きかったが、小さい頃の印象よりは小ぢんまりとして見えた。
    中世の貴族が暮らしそうな屋敷は、文子の夫である鴻池氏の趣味だったようだ。

    花憐は屋敷の一番奥の部屋に通された。

    「こちらで少々お待ちください」

    女性はそういうと部屋をそっと出ていった。

    アンティークの家具で統一された部屋は、花憐にとって眩しすぎた。
    母の部屋も、こういった家具で飾られていたのが思い出される。

    花憐は落ち着かない気持ちで、ソファに座ることもなくうろうろ歩き回った。

    久しぶりの文子との再会である。
    綺麗な身なりでもない自分を見て、何て思うだろう。

    花憐が最初に何て挨拶をしようかとあれこれ考えている時だった。

    ドアをノックする音がした。

    「入りますよ」

    花憐が答える前に扉が開いた。
    そこには車椅子に乗った年老いた文子がいた。

    昔はもう少しキツイ目をしていた気がするが、歳を取って、皺も増え、目尻が下がり、優しい印象を与えた。
    それでも溌剌さは失われていない。思ったより若々しく見える。

    「伯母さま・・・」

    文子はゆっくりと花憐のそばに近寄り、ニコリと笑った。

    「こんな格好でごめんなさいね。もう一人では歩けないの」

    と申し訳なさそうに言った。

    花憐は何も言えず、ただ首を横に振るだけだった。

    「座ってちょうだい。疲れたでしょう」

    文子に促されて、花憐はようやくソファに座った。

    「来てくれて、本当に嬉しいわ。もしかしたら来てもらえないんじゃないかしらって心配してたの」

    文子は花憐をまっすぐ見つめて言った。

    「とんでもないです。お声をかけてくださって・・・。感謝しています」

    先ほどの女性がお茶の用意をして部屋に入ってきた。

    二人の前にあるテーブルにティーカップとスコーンのセットを置く。

    「あなた、スコーンが好きだったわよね。覚えてるかしら?久しぶりにスコーンを焼いてみたのよ」
    「・・・伯母さまが焼いてくれたのですか?」
    「腕が落ちてなければいいけれど」

    そう言って花憐の前にスコーンを二つ乗せた皿と、生クリームとジャムを置いてくれた。
    焼きたてのスコーンの良い香りが漂ってきた。

    花憐は脇にあった手拭ようのタオルで丹念に手を拭き、スコーンを手に取った。

    「いい香り・・・。いただきます」

    そう言ってジャムを少しつけた食べた。
    甘すぎないママレードのジャムと、温かいサックリした食感のスコーンは、朝から何も食べていない花憐の
    胃を優しく刺激した。

    「おいしい・・・」

    スコーンなど何年も食べていなかった。甘いもの自体食べる機会が少ないのだ。
    花憐は文子の心遣いに思わず目を潤ませた。
    花憐は食欲を抑えきれず、あっという間に二つのスコーンを食べてしまった。

    すぐに文子がスコーンを足してくれる。
    文子は花憐がお腹をすかせていることを知って、女性にサンドウィッチを作るように命じた。

    用意されたサンドウィッチを全て食べ、差し出されたミルクティーを飲むと、花憐はようやく心を落ち着けた。
    目の前の文子は優しく微笑んで花憐を見つめている。
    ここへ来ても良かったのだと、安心感が湧いてきた。



    「お母様にそっくりね・・・。こうしていると昔を思い出すわ」

    文子はしみじみと感情を込めて呟いた。

    「ごめんなさいね。あなたが苦労していることを知っていながら・・・。何もできなくて」

    花憐はいいえ・・・と小さい声で答えた。

    文子が何もしてこなかったことを、花憐は責める気などなかったが、文子は自分が悪かったと思って
    いるようだった。

    「つまらない意地なんか張って、馬鹿なことをしたと反省してるの。あなたのお父さんが亡くなった時に、
    すぐにあなたを迎えに行くべきだったわ・・・」
    「いいえ・・・・。こうして気にかけてくださっただけで十分です。こうしてもう一度伯母さまに
    会えただけで・・・」

    文子は花憐の手をそっと手にとって、手の甲を優しく撫でた。

    「せっかくですから、今日はゆっくりしていってね。今日だけじゃなくて、しばらくここにいていいのよ。
    お部屋を用意しているから、音楽会までゆっくり休んでちょうだい」

    花憐は少し表情を曇らせた。

    「伯母さま・・・。私、音楽会は遠慮させていただきたいのです」
    「あら、どうして?」
    「この服しか持っていないのです。この格好では・・・」
    「まあ、そんなこと気にしないで。あなたが着る洋服はこちらで準備します。まずはお風呂に入って
    ゆっくりなさいな」
    「いいえ、そんなことまでしてくださらなくても・・・」
    「お願い。そのくらいさせて欲しいの。私があなたにしてあげることなんて、このくらいのことしか
    ないのよ。どうかこの年寄りの言うことを聞いてちょうだいな」

    文子は子供をメッと叱るような、わざとしかめっ面を作って花憐に言った。

    「さ、お部屋に行きなさい。何かあったらすぐにこの子がかけつけますから、何でも言ってね」

    花憐は立ち上がって、深々と頭を下げた。

    「伯母さま、ありがとうございます」
    「音楽会の前に、私の部屋に来てね。あなたの可愛い姿を見せてちょうだい」

    花憐は、ハイ!と元気よく答え、部屋を出た。

    案内された部屋は二階にある大きなバルコニー付きの部屋だった。
    バスルームとトイレが付いていて、大きなベッドとアンティークの鏡台と椅子。
    ソファと大きなテレビも置いてある。一人には大きすぎる部屋だった。

    バスルームをのぞくと、既に湯船には湯がはられて、温かい湯気が充満していた。

    小さな小瓶がいくつも並び、一つを手に取って蓋を開けて匂いをかいでみる。
    バラの濃い香りが鼻を刺激した。
    湯船に落とすバスオイルというものかしら、と花憐はその小瓶を傾けてオイルを2、3滴湯船に落とした。

    温かい湯に落ちたオイルは、ふんわりと心地よい香りでバスルームを満たした。

    すぐさま湯に浸かりたくなり、花憐は服を脱ぎ、体を軽く流すと湯船の中に身を沈めた。
    温かい湯とバラの香り・・・。

    三日に一度の風呂も、湯船に浸かったことなどなかった。
    花憐にとっては考えられない贅沢だった。

    右腕の火傷の跡が少しピリピリするが、優しくマッサージすると引き攣れがほぐれていった。

    跡を見て、有坂の家のことを思い出した。

    今頃、家では大騒ぎになっているに違いない。
    晴彦はとんでもないことをしてしまったとパニックを起こしているだろう。

    貴子が血眼になって街中を走り回っている姿が想像できた。
    今夜にはこの家にやってくるかもしれない。
    しかし、文子が貴子をこの家に入れることはないだろう。
    ここにいる限りは安心できる。
    花憐はそう思う一方で、貴子たちがこのまま大人しくしているとも思えず、何かしらの報復をしてくることは
    間違いないと確信していた。



    文子に迷惑をかけることになるかもしれない・・・。
    そう長くこの家にいるわけにはいかないだろう。

    しかし、今夜だけでもこの家で過ごし、楽しみたいという気持ちがあった。

    火傷の跡は、色は徐々に落ち着いてきたものの、一度ケロイド状になった皮膚が綺麗な皮膚に戻ることは
    なかった。湯につかって体温が上がると、ピンク色に染まり、痛々しく見えた。

    こんな体で、誰と結婚しようというのだろう・・・。

    しかし、花憐が手に入れる財産に目が眩んで結婚を考えてくれる人がいるかもしれない。
    それだけお金というものは人の心を奪うものだということはわかっていた。

    今夜・・・。どんな人が来るのかわからないけど、もしかしたらチャンスがあるかもしれない。
    ここまできたら、恐れていてはいけないのだ。
    引き返しても地獄した残っていない。

    花憐は丁寧に体と髪を洗い、ゆっくりとバスタイムを楽しんだ。

    バスルームを出ると、壁にいくつかのドレスやワンピースがかけられていた。
    急いで髪を乾かし、もう一度ドレスを見渡す。

    好きなものを選べということだろうか。
    赤やシルバー、紫やブルーのドレスに、白や淡い水色のワンピース。
    もちろん花憐は大人になってから、こういった服を着たことなどない。
    果たして自分に何が似合うのかまったく分からなかった。

    もう日が落ちて、外は暗くなり始めている。
    音楽会は19時からと言っていた。今は18時である。のんびりしている場合ではない。

    花憐は薄い紫色のシフォンドレスを着てみた。
    丈が短く、膝が丸見えだが、他のドレスは胸の部分が開いていたり、ノースリーブのものだったから、
    火傷の跡が見えてしまうと思ったからだ。

    これなら鎖骨が少し見えるものの、胸も腕もちゃんと隠れる。

    姿見の前で自分の全身を見て、花憐は気恥ずかしさで一人笑った。

    トントン、と軽快なノックがして、男性の声が聞こえてきた。

    「失礼しまーす。入ってもいいかしら?」
    「はい・・・・!」

    そう言いながらも、まだストッキングも履かず、素足だったことを思い出し、花憐は慌てた。
    ちょっと待ってください、と言おうとしたが既に遅く、男性が一人大きな箱を持って中に入ってきた。

    「あ、どうもー。ワタシ、榊っていいまーす。文子さんのおかかえのヘアメイクさんでーす」
    「ど、どうも・・・」

    現れた男性は、顎鬚をたずさえ、凛々しい眉毛に筋肉質な体で、いかにも男性的な様子だったが、物腰が
    柔らかく言葉遣いも何だか妙だった。

    「あら、そのドレスにしたのね。可愛いでしょ!?ワタシもそれお気に入りなのよね」
    「はぁ・・・・」

    榊という男は、鏡台の前に持っていた箱を置くと、パカッと蓋を開き、中から様々な化粧道具を取り出した。

    「さ、時間がないから急ぎましょう。座って座って」

    花憐は呆気に取られながら鏡台の前に座った。

    「もうさ〜。文子さんに、突然ドレスも用意してって言われたから焦ったわよ〜。たいしたもの
    集めらんなくてぇ。でもこのドレスは可愛いなと思ってたのよね。良かった。持ってきて」
    「・・・・・」

    女性的な仕草の榊を前に、花憐は驚きを隠せず、まじまじと榊を眺めた。

    「ん?何?ワタシ、何かおかしい?」
    「いえ・・・。ごめんなさい・・・・」
    「やだ〜!あなたの肌、すっごい綺麗!!ちょっと乾燥してるけど、シミもないし、真っ白!!
    ファンデなんかいらないわねぇ」

    榊はコットンに化粧水を染み込ませてパッティングを始めた。

    「最近の若い子って、肌荒れひどいのよ。あなたみたいに綺麗な肌珍しいわ〜。でもちょっと眉毛を
    整えないとね。普段お化粧しないの?」
    「はい・・・」
    「あらそう。でも今日はしっかりしないとね。お見合いパーティーみたいなものなんだから」
    「お見合いパーティー・・・・?」


    榊は今度はクリームを手に取り、花憐の顔に指を滑らせ、マッサージを始めた。
    ゴツい指からは想像できないほど優しい手つきだった。

    「年配の方や既婚者ももちろん多いわよ?でも、独身のセレブたちがメインで集うわけ。女の子は
    上流の男目当てに来るのよ。昔の社交界みたいなものよ。文子さんとか、年配の女性はそういう場を
    提供してるってわけよ」
    「あの、そんなにすごいんですか?ただのお食事会みたいな感じでは・・・」
    「すごいっていうか・・・。まあ、みんな金持ちよね。気取った奴らの集まりよ。社会的地位も
    それなりにあって、金を持て余してて、暇人たちの集まり。気をつけてね。変な人もいるから」

    花憐が思っているより、盛大なパーティーのようだった。
    自分が参加していいものか、戸惑いが生じる。

    「緊張しなくても大丈夫よぉ。ワタシも良くここの家のパーティーに顔出すけど、見たところ
    あなた以上の美人はいないわね。特に若い女は、いい男探しで目が血走っちゃってさぁ。
    外見は綺麗でも、中身が醜いのが一目瞭然!はい、ちょっと上向いて」

    榊が花憐の眉を整い始めた。なんだか人に顔を触られるのは少し緊張する。
    それでも榊の軽快な会話に、花憐は笑い、徐々にリラックスしていった。

    「うーん・・・。あなた、本当に美人だわぁ。瞳も綺麗な黒目だし、睫も長いし・・・。髪の毛なんて
    つやつやで羨ましいわよ。ちょっとくせ毛だけど、あとで綺麗に巻いてあげるからね」

    肌は粉をはたいて軽くチークをのせる。アイメイクもキツくなりすぎないよう控えめにし、唇は
    つやつやになるようリップを塗った。

    「やだ〜。ワタシ、男専門だけど、あなたのことは本当に可愛いと思っちゃったわぁ〜。
    上唇の薄いアヒル口、うらやまし〜」

    榊がやたら褒めてくれるので、花憐は文子の姪だから気を使ってくれているとわかっていても、
    上機嫌になってしまって仕方なかった。
    髪をふんわりと巻いてくれ、スプレーを全体にかける。艶やかな黒髪が花憐の白い肌によく映えた。

    「靴はコレを履いてね」

    ヒールが木目になっていて、足先に紫色の花のコサージュがついた靴だった。

    「私、ストッキングまだ履いてなかった・・・!」

    花憐が焦ってそう言うと、榊はいいのよと言った。

    「生足でいいわよ。あたなの足、とっても綺麗。ちょっと細いけど、膝頭も綺麗だし、全然問題ないわ」
    「でも・・・」

    素足でいると落ち着かない。それでも榊に説得されると、それでいいのかなと思うようになった。

    「あなた、今日の一番の人気者になるわよ〜。楽しみね〜」
    「榊さん、ありがとうございます。こんなに素敵に仕上げてくれて」
    「やだ、仕事だもの。当然よ。あ、あなたに名刺渡しておくわね。コレ。何かあったらいつでも呼んでね♪」

    花憐は両手で名刺を受け取った。

    「榊 幸之助」

    男らしい名前に思わず噴出した。

    「あら、人の名前見て笑うなんて失礼ね。でも、あなた笑うととっても可愛いわ。もっと笑った方が
    いいわよ。あなたじゃないわね、お名前聞いてなかったわ。教えてくれる?」
    「有坂花憐といいます」
    「まー!花憐ちゃん!?やだー。名前負けしないで良かったわねぇ。ほんとに」

    あっという間に時間が過ぎ、19時になろうとしていた。
    榊は慌てて花憐を送り出した。
    久しぶりに大笑いさせてくれた榊に、花憐は心からお礼を言った。

    花憐は文子の部屋を訪れる約束を思い出し、急いで文子の部屋へ向かった。



    ノックをすると、すぐに返事があった。
    少し照れくさい気持ちで着飾った姿を文子に披露する。

    「まぁ、お姫さまみたいねぇ。とっても素敵だわ」

    文子はソファに上半身を軽く起こして、横たわっていた。

    「伯母さまは、音楽会にはお出になられないのですか?」
    「私はもういいのよ。息子が主賓ですから、息子に全て任せてあるの」

    そう言うと、ゆっくりと体を起こして、テーブルの上の箱を手に取った。

    「こちらへいらっしゃい」

    手招きして花憐を呼び寄せる。花憐は文子の目線に合わせて床に膝をついた。

    「これをあなたにあげるわ」

    そう言って、箱からきらびやかなダイヤのネックレスを取り出した。

    「・・・・!」

    あまりの輝きに、花憐は唖然としてそれを見つめた。

    中心に大きなダイヤがあり、それを囲うようにして小さなダイヤがちりばめられている。

    おそろいのイヤリングもあった。

    「私には娘がいないでしょう。あなたに受け取って欲しいの」
    「いけません。こんな高価なもの・・・」
    「これはね、私が結婚するときに母がくれたの。あなたのお祖母さまね。私も娘ができたら譲ろうと
    思ってたけど、娘は生まれたなかったし、嫁たちはもっと高価なものを身に着けてるからたいして
    喜んでもらえないのよ」
    「伯母さま、でもこれはいただけません」

    花憐は文子の手を押さえた。

    「・・・そう。では、これはあとで処分するわ。もう私が持っていても仕方がないから」
    「そんな・・・・!」

    花憐は思わずネックレスを受け取った。

    文子がふふ・・・と笑って、手を引いた。

    「さあ、つけて見せて」

    どうしたらいいのかわからない様子であたふたする花憐の前に文子は鏡を差し出した。
    花憐はゴク・・・と喉を鳴らしてネックレスを見つめた。
    美しく輝きを放ち、ずっしりと重いそのネックレスは、花憐が一生手にすることなどできないはずだった
    ものだった。

    涙がこぼれそうになる。伯母の気遣いが苦しいほど伝わってきた。

    「あら、せっかく綺麗にお化粧したのに、泣いたりしたらダメよ」
    「ご、ごめんなさい・・・」

    花憐は目をしばたかせておぼつかない手つきでネックレスをつけた。
    イヤリングは文子がつけてくれた。

    「これで完璧ね。さ、もう時間が過ぎてしまったわ。みんなにあなたを紹介するように長男の克彦に
    言ってありますから、すぐに打ち解けられると思うわ。
    疲れたらいつでもお部屋に戻って休んでいいですからね」
    「伯母さま・・・。本当にありがとうございます・・・」

    文子は花憐の額をそっと撫でて微笑んだ。

    「楽しんでね」
    「はい・・・!」

    花憐は立ち上がって深々と頭を下げると、文子の部屋を出た。

    首に感じる、ずっしりと重い感触が今日は特別な日なのだと花憐に思わせた。

    オーケストラの演奏が聴こえてくる。人々のざわめきが花憐の胸をわくわくさせた。

    どんな人たちがいるのか、全くわからないが、みんなの様子を部屋の隅でひっそりと見ているだけでも
    幸せに違いない。

    一階の降りると、階段付近で従兄弟の克彦が花憐を待っていた。
    従兄弟と言っても、克彦とは二周り近く歳が離れており、叔父さんといった方がピンとくるくらいだった。

    「花憐ちゃん、お久しぶり。いやー、とても綺麗になりましたね」
    「ご無沙汰しております。今日はお招きいただきありがとうございます」

    克彦は先ほどの花憐の姿を見ていないから、花憐が着飾っていることに何の違和感も感じていないようだった。

    「少し挨拶にまわってもらおうと思うけどいいかな?」
    「はい」

    そう返事したものの、花憐は少し遠慮がちに克彦に告げた。

    「克彦さん、私こういった会に出席するのは初めてなのです。言葉遣いや作法に全く自信がありません。
    何か粗相をしてしまったら、すぐに教えていただけますか?」

    花憐の言葉に克彦は少し驚いた表情を浮かべた。

    「あなたなら大丈夫ですよ。それに、最近の若い女性の言葉遣いや作法なんて無いに等しい。そんなことを
    気にする方が珍しいくらいです」

    気にしないで大丈夫、と微笑んで花憐を広間へと案内した。


    花憐は人々の多さと、その華やかさに圧倒された。
    大きな広間が二つ続いており、手前では豪華な食事が中央のテーブルに用意され、立食形式になっており
    人々は立って会話をしたり、壁際の椅子に座って食事をしたりしている。

    大きなシャンデリアがキラキラと煌き、オレンジ色の暖かな光りとアールデコ調の鮮やかな壁紙がマッチ
    していて、それだけでも豪華絢爛な雰囲気なのだが、ところどころにおかれた大きな花瓶には花憐の見た
    ことのない艶やかな花々が飾られていて、生花ならではの自然な香りが漂っていた。

    奥の部屋はガラス張りで、庭に出られるようになっており、オーケストラのメンバーが美しい旋律を
    奏でている。広く開いたスペースでは、ドレスを着た年配の男性、女性たちがワルツを踊っていた。

    映画のような世界に、花憐はただただ圧倒されて、体を縮めて辺りを見回していた。

    (私がいていいのかしら・・・)

    自分がいることが、とんでもないことのような気がして、花憐は克彦の後ろに隠れるようにして歩いた。

    まず、克彦は立食の部屋の中央部分にいた老人に声をかけた。
    克彦がしばらくその老人と会話をする様子を、花憐は少し離れたところで見ていた。
    老人が花憐に視線を向けてニコリと笑った。

    「こちらのお嬢さんは?」
    「私の従姉妹にあたります、花憐といいます」
    「君にこんな可愛い親戚がいたとは、初耳だな」

    克彦に背中をそっと押され、花憐は老人の前に遠慮がちに立った。

    「こちらは、私の父がずっとお世話になっていた大濱先生だよ。近隣の大国の大使になられて、
    今は退官して都内の大学で教鞭を取っておられるんだ。大使の頃は、それはそれは怖〜い
    お人だったんだよ。今でもこの人を恐れている外交官はたくさんいる。私もその中の一人だ」
    「おいおい、何てことを言うんだ。本気にしてしまうじゃないか」

    老人は克彦をギロと睨むと、花憐に向き直ってすぐに笑顔に戻った。

    「有坂花憐と申します。宜しくお願い致します」
    「よろしく」

    そう言って手を差し出した。
    花憐は戸惑いながら、その手を取って、膝を曲げて会釈した。

    小さい頃、父の同僚の人に挨拶する時に教わった挨拶の仕方だった。咄嗟に行動に出したものの、
    ただの握手でよかったのかな、思い伺うように老人の顔を見た。

    老人は満足げに頷いて言った。

    「礼儀正しいお嬢さんだ」

    克彦は短い会話のあと、老人にまたあとで・・・と告げると、次の挨拶をしに花憐を連れ出した。

    「私ったら、ただの握手でよかったのに、あんな挨拶してしまって・・・」
    「とても綺麗で自然な仕草だったよ。ああいう古い人は、かしこまった挨拶の方が好きなんだ。大丈夫だよ」

    克彦に言われ、花憐は少し安心したが、次の挨拶からは軽く握手をするにとどめた。

    何人かの挨拶を終えると、克彦がシャンパンを持ってきてくれた。

    「挨拶ばかりでつまらなかっただろう。ゆっくり食事でもしてください。私はそろそろ弾きにいく番なので、
    これで失礼するけど、何かあったらすぐ声をかけてください」
    「弾く・・・・?」
    「ビオラを弾くんです。あそこに混ざってね。またあとで聴きにきてください」

    そう言うと花憐の傍を離れていった。
    そういえば、文子の旦那である鴻池氏も音楽が好きで、チェロを弾いていたなと花憐は思い出した。
    文子もピアノを弾いていた。この家の人々は、音楽をとても愛しているのだ。

    しかし、今日の客たちは音楽どころかお酒やおしゃべりを楽しみにきている人たちがほとんどのようだ。



    花憐は華やかな雰囲気で既にお腹いっぱいになり、空腹を感じなかった。
    椅子に座ってシャンパンをちびちびと飲んで、みんなの様子を何気なく観察しているだけだった。

    「こんばんは」

    二人の若い男が花憐の前に立った。

    花憐は慌てて立ち上がり、こんばんはと答えた。

    「初めてお見かけするようですが・・・。鴻池さんの親戚の方ですか?」
    「はい・・・。克彦さんの従姉妹の有坂花憐といいます」
    「克彦さんの従姉妹?じゃあ、鴻池夫人の姪御さんなんですね?」
    「はい。宜しくお願い致します」

    二人の男は顔を見合わせ、目配せをし合った。

    「・・・鴻池夫人に、あなたのような姪御さんがいたなんて知らなかったな」
    「留学でもされていたのですか?」

    花憐は返答に困り、曖昧に微笑んでごまかした。

    その二人の男が花憐に話しかけたのをきっかけに、次々に若い男たちが花憐のもとへやってきた。
    あっというまに花憐の手にはたくさんの名刺が渡された。

    みんな花憐のことを知りたがり、質問を浴びせたが、花憐は曖昧に答えるしか術がなかった。
    どうしたらいいのだろう・・・と花憐が困り果てていた時だった。

    「ちょっと失礼」

    大きな体の男が輪の中に入り込んで、花憐の手を引っ張った。
    榊だった。黒いスーツを着た榊は先ほどまでの印象とガラリと変わり、どこから見ても紳士的な男性だった。

    「ごめんなさい。この子、まだ何も食べてなくて。お食事が終わったらまたお願いします」

    強引に、ぐいぐいと花憐の腕を引いて部屋の隅の椅子に二人で座った。

    「榊さん・・・」
    「ね?だから言ったでしょ?あなた、絶対人気者になるって」

    近くを通ったウェイターに声をかけて、料理を適当に取ってきてほしいと告げた。

    フォーマルスーツ服姿の榊を見て、花憐は惚れ惚れするといった表情で呟いた。

    「榊さん・・・とっても素敵・・・」
    「やだぁ〜。知ってるわよぉ。そんなこと。でも、こういった服、本当は好きじゃないのよねぇ。
    ちゃんと振舞わないといけない気持ちになるじゃない?疲れるわ〜」

    見た目の印象からは全く想像できない喋り方に、花憐は思わず顔を崩して笑った。
    さっきまで愛想笑いしていたのとは違い、榊と話しているのは本当に楽しかった。

    ウェイターから料理がのった皿を受け取り、花憐の膝にナプキンをのせた。

    「お腹すいてるでしょ?ここのローストビーフったら絶品なのよぉ」

    榊が言うと本当においしいように聞こえる。さっきまで空腹など感じなかったのに、突然お腹がすいて
    くるから不思議だ。

    榊が勧めるローストビーフを食べる。柔らかい肉と、少し辛めの味付けのソースが絶妙だった。

    「おいしい・・・・!」
    「でしょう!?さ、どんどん食べて。あなたちょっと痩せすぎだわ。もう少しくらいお肉をつけた方が
    魅力的になるわよ」

    今まで、自分が女性として魅力的かどうかなど考えたことなどなかった。
    榊と話していると、それがとても大事なことのように思えてくる。

    榊は話しながらも花憐の髪をちょいちょいと直したり、ネックレスの歪みを調えてくれたりした。
    職業病のようで、それは榊が女性の美しさに常に敏感であることを伺わせた。

    「どう?いい男はいた?」
    「それが・・・良くわからないんです。みなさん、良い人だと思うんですけど・・・」


    今まで知っている若い男性といえば、晴彦と岩田ぐらいだった。
    二人ともコンプレックスの塊で、花憐に強くあたることでストレス解消しているような卑屈な男だった。

    しかし、今日会った男性たちは皆自信に溢れ、卑屈なところなど見当たらず、余裕があることが感じられる。
    花憐は男性の良し悪しの判断をつけられるほど、世の中の男性を知らなかった。

    「良い人ねえ・・・。まあ、表向きはみんな優しい男を演じるわよね。特にこういうところに来る男は」
    「榊さんはどんな方がタイプなんですか?」
    「え!?ワタシ!??ワタシは、強気で男気のある人が好き。普段はついてくんなよ!さわんなよ!
    みたいな感じなんだけど〜時々すっごく優しい、みたいな」

    少女のように目を輝かせて話す榊を見て、花憐は微笑まずにいられなかった。

    「榊さん・・・。ありがとうございました。さっき、助けてくれて・・・・」
    「なんか、あなたってほっとけないっていうか・・・。不思議よね。さっき会ったばっかりなのに。
    久しぶりに会った結婚適齢期の妹みたい。お節介したくなっちゃうのよね」

    こんな人が側にいてくれたら、自分の人生はもっと違っていたかもしれない。そう思わせる器の大きさを
    榊に感じた。

    「本当はもっとお話したいんだけど、今日これから一つ仕事があるのよ。ごめんなさいね。でも、
    帰る前にあなたと一曲踊りたくて」
    「え?・・・・踊る?」
    「そうよ。普段ダンスなんて恥ずかしくてやらないけど、あなたと踊って、さっきの男どもを唸らせたいの。
    ね、いいでしょ??」
    「む、無理です!私、踊れません」

    嫌がる花憐を無理やり立たせて榊は隣の部屋へ移動した。

    「大丈夫よぉ。ワルツなんて年寄りや頭の悪い貴族でも踊れるようにできてるんだから。簡単なの!
    あなたならすぐ踊れるようになるわ。教えてあげるから、大丈夫!」

    何組かの男女がワルツを踊っているところだった。
    榊が花憐の右手を取って、左手を肩のあたりに添えさせる。
    榊の大きな手が腰にまわると、思わずドキリとした。

    「姿勢はいいわね。ワルツは三拍子よ。足をチェンジさせるのが最初は難しいかもしれないけど、
    もうどんどん足踏んでもらってかまわないわ。あなたはワタシに合わせて動いてくれればいいの。
    ワタシが動いたところについていくだけ。ターンなんて適当よ。楽しく踊ればそれでいいの。
    最初はゆっくり動くから、焦らないでついてきてね」

    それだけ言うと、榊は音楽に合わせてワルツの輪の中に入っていった。

    花憐は大いに戸惑い、足元を見ながら榊の動きについていく。
    ゆっくり動いていても、どうにも足がもつれる。
    何度も榊の足を踏んでしまう。

    「ごめんなさい・・・・!」
    「気にしないでって言ったでしょ?大丈夫、あなたみたいな軽い子に踏まれたぐらいじゃ何ともないわ。
    それよりちゃんと顔を上げて、にこにこして踊ってくれた方が助かるわ」

    榊のリードは的確で、最初こそもたついたものの、花憐はすぐにコツを掴んで少しだけワルツを
    楽しめるようになった。

    「いいわ。とっても上手よ。ほら、男どもがみんなあなたを見てる。いい気味だわ」

    まわりの人々を見ている余裕など、花憐にはなかった。
    榊の動きに集中していたので、ダンスホールに人々が集まってきていることに全く気がつかなかった。

    「ねえ、あの庭に出るとこに集まってる女たちに囲まれてる男がいるでしょ?」

    そう言われて、さっと視線を巡らせるが、女性たちの中に一人背の高い男性が一瞬見えただけで、
    どんな顔をしているかまでは花憐にはわからなかった。

    「大河建設の五男坊の大河清人。確かもうすぐ30歳になるんだったと思うけど・・・。女好きで有名で、
    ほんとーに軽い奴。女関係でいろんなトラブル起こしてるのに、それでもモテるのよねえ。
    見て、あの群がる女たちのいやらしい目。寒気がするわ」

    榊が話しながらよくこんなに流れるようにダンスが出来るなぁと思いながら、花憐は何となく話を聞いていた。

    「みんな、自分ならあの坊ちゃんを魅了できると思ってんのよ。金持ちの道楽ね。ただのゲームよ。
    真面目に恋愛なんかしてる人なんかいないわ。あいつだけは気をつけてね。私もたまに仕事で
    顔合わせる時があるんだけど、いっつも違う女連れてんのよね」

    気をつけろと言われて、初めて花憐はその話に集中した。

    (大河清人・・・・)

    「大河建設って・・・有名ですか?ごめんなさい、私良く知らなくて」
    「いわゆる大手ゼネコンてやつね。けどね、噂じゃ、上のお兄さんたちと父親が違うらしいの。
    だからあの人だけ大河建設の社員じゃなくて、銀座だか六本木だかの高級クラブの経営
    してるんじゃないかしらって話。でも不況でクラブ経営も打撃受けたから、金持ちの女とでも結婚して
    海外で悠々自適に暮らしたいって言ってるみたいよ。それでこういうところに頻繁に現れては女を
    物色してるのね。まあ、でもあんな男と結婚したいと本気で思う女なんていないと思うけど」

    (金持ちの女を・・・物色・・・・?)

    「お金に・・・困っているんでしょうか・・・・」
    「そうみたいね。私も詳しくは知らないけど。あの人の場合、仕事の話より女の話の方が良く聞くから。
    この前も人妻との浮気現場を旦那に見られて大変だったとかいう噂を聞いたけど。とにかくそういう類の
    噂が離れない男なのよねぇ」

    榊の話に花憐は思わず動きを止めた。
    動きを止めた花憐が疲れたと思ったのか、榊は花憐の手を引いてダンスの輪を抜けた。

    「大丈夫?疲れた?私もそろそろ行かなきゃ。またきっとどこかで会えるわよね」
    「榊さん、本当にありがとうございました。とっても楽しかったです」

    花憐は満面の笑みで榊にお礼を言った。
    榊は急に真顔になって花憐を見つめた。

    「榊さん?」
    「あなたって・・・」

    榊は何か言おうとしたが、軽く首を横に振ると、笑顔に戻って花憐の手を取った。
    花憐の手の甲に強く唇を押し当ててキスした。

    「!!」
    「ふふふ・・・。奴らの顔ったら。きっとこの後、みんながあなたをダンスに誘うわよ。じゃあね、
    可愛い天使さん」

    榊はバチン!と音がしそうなウィンクを花憐に投げて、手を振って去っていった。

    男性に手にキスなどされたのはもちろん初めてだった。
    榊の派手な行動に一人残された花憐は呆気に取られたあと、クスクスと笑って’大きな女性’の
    背中を見送った。

    榊が去ると、すぐに男性たちが花憐をダンスに誘ってきた。
    男性たちからすれば、ただ話すだけより手を取り体を密着させるダンスは、距離を縮めるにはもって
    こいだった。

    上手に踊れないのだと言ったところで無駄だった。みんな榊と踊るところを見ていたからだ。
    花憐は仕方なく何人かの男性と踊ったが、榊と違って明らかに皆’男性’であったから、緊張して
    どんどん疲労が溜まっていくのを感じた。

    5人ほどの男性と踊ったあと、花憐はちょっと失礼しますと言ってホールを出た。
    どこか一人で休めるところを探したが、室内は人でごった返していたし、外の空気を吸いたいと思った。

    エントランスから庭へ出ると、足元に仄かな灯りが燈る小道を歩いた。
    屋敷の裏に続くその小道の途中にはベンチが置かれており、花憐はそこに座って小さくため息をついた。

    秋の夜は思ったより寒かったが、火照った体にはちょうど良かった。

    虫の音と、微かに聴こえてくるクラッシックが花憐の心を落ち着かせた。

    まだ2時間ほどしか経っていないが、花憐にとっては初体験の連続で、何時間も走りっぱなしのような
    疲労を感じていた。

    思えば今日は朝からいろいろなことがあった。
    有坂の家を決死の覚悟で抜け出したのだ。疲れて当然である。
    花憐は指先でそっと目頭を押さえた。

    「お疲れのようですね」

    突然男性の声がして、花憐はハッとして顔を上げた。
    立ち上がって挨拶をしようとする花憐を制して、男性はベンチの隣に座った。

    初めて見る顔だった。今日花憐に話かけたり、ダンスした男性たちの誰でもなかった。
    ストレートの少し茶色い髪は艶やかで、さらさらと音がしそうなほどであった。

    切れ長の目は女性的で、綺麗なラインの鼻梁と、優しい微笑みをたたえた唇がよりいっそう男の美しさを
    引き立てている。

    長い足を組んで、上半身をわずかに花憐の方へ向けて座る。男は自分がどういう風に人に見られるのか、
    良くわかっているようだった。自信が漲っている。

    花憐はピンときた。この男が大河清人に違いない。

    「あなたは・・・・」
    「大河といいます。鴻池夫人の姪御さんだそうですね。お初にお目にかかります」
    「有坂花憐と申します・・・。宜しくお願い致します」

    花憐を値踏みするようにじっと見つめる清人の目線から逃れるようにして、花憐は前を向いてうつむいた。

    今日会った男性の誰よりも美しい清人に、まじまじと見つめられると、どうしていいのかわからず
    落ち着かなかった。

    「花憐さんか・・・・。素敵な名前ですね。あなたにピッタリだ」

    清人のお世辞はあまりに自然で、かえって心がこもっていないように感じた。

    「私は何度か鴻池邸の音楽会に参加していますが、あなたにお目にかかったのは今日が初めてだ。
    普段は何をなさっているのです?」

    これは今日、様々な人にされた質問だった。
    花憐は苦し紛れに考えた嘘を清人にも告げた。

    「長い間・・・病気をしていましたもので・・・・。最近になって、ようやく外へ出られるように
    なったのです。今は・・・・まだ療養中でして・・・・」

    清人はそうですか、と納得したようすを見せて、それ以上はそのことについて質問しなかった。

    花憐は気の利いた話題を挙げることもできず、ただ黙って清人の言葉を待った。
    清人は花憐と目が合うと、ニコリと笑った。

    清人は笑うと、少年のようなとても可愛い印象を与える。
    花憐はドキリとしてその笑顔に見惚れた。

    「一人になるためにここへ来たのに、私なんかが現れてさぞかしご迷惑でしょうね」

    そういいながら、自分が悪いことをしたなどとは露ほども思っていないようだった。

    「あなたとゆっくり話がしてみたくて、ついてきてしまったんです。気を悪くされたら謝ります」
    「いいえ・・・・。大河さんこそよろしいのですか?あなたとお話したがってる方はたくさん
    いらっしゃると思うのですけど・・・」
    「いいんです。みんな良く知った人達ばかりですから。話題もこれといってないし、あなた以上に
    魅力的な女性はいません」

    さりげなく会話にドキリとさせることを混ぜてくる。そうしながら花憐の様子を伺っているようでもあった。

    (この人は・・・・私のことを気に入ってくれてるのだろうか・・・・)

    榊の話が頭に浮かぶ。
    金持ちの女を物色しているというのは本当なのだろうか。
    花憐の胸がざわついてくる。

    あの提案を・・・・この人にしてみようか・・・・。

    「寒いでしょう。これをどうぞ」

    清人がスーツの上着を脱いで花憐の肩にかけてくれた。

    「いいえ、大丈夫です。これではあなたが風邪を引いてしまいます」
    「私は大丈夫です。散々酒を飲まされたから、少し酔いを醒ましたほうがいいんですよ」

    しかし、シャツだけの姿になった清人の体は細く、どうしても寒そうに見えてしまう。

    「では、もうお家の中に戻りましょう。温かい飲み物でも頂いたほうが・・・」

    そう言って立ち上がった花憐の腕を、清人は慌てて掴んで座らせた。

    「待ってください。もう少しここで・・・あなたとお話したいんです」

    清人の手の力は思ったより強く、花憐は引かれるままにベンチに座った。
    先ほどより距離が近くなってしまった。膝と膝が触れ合いそうなぐらいだった。

    清人の体温が残った上着は暖かく、花憐は申し訳ない気持ちでお礼を言った。

    「ワルツがお好きのようですね」

    言われて花憐は目を丸くした。

    この人は私が踊るところを見たのかしら?あんなぎこちない動きを見て’お好き’だなんて・・・・。


    「とんでもないです。今日までワルツなんて踊ったこともなかったんです。みなさんにお誘いを
    受けて仕方なく・・・」

    仕方なくと口にしてしまって、しまった!と思ったが遅かった。

    「それを聞いて安心しましたよ。あなたは男性を弄ぶようなタイプではなさそうだ」
    「弄ぶだなんて・・・そんな・・・・」
    「私もあなたと踊りたい、と言ったら’仕方なく’オーケーしてくれますか?」

    清人は立ち上がって花憐に手を差し伸べた。

    「・・・・ここでですか?」
    「ここで、です」
    「でも・・・間違いなくあなたの足を踏んでしまいます」
    「いいですよ。あなたのような女性に足を踏まれるなんて光栄だ」

    足を踏まれて光栄・・・?

    花憐はなんておかしなことを言うのだろうと、思わずクスリと笑った。

    「では、少しだけ・・・・」

    花憐は清人の手に手を重ねて立ち上がった。
    芝生の足場は悪く、とてもワルツなど踊れそうになかった。

    きっと何度も足を踏まれれば、清人も降参するに違いない。
    二人は微かに聴こえる音楽に乗せて踊り始めた。

    榊も背が高いと思ったが、清人は更に背が高かった。
    腰にあてられた手は動いていないのに、なぜだかそこからどこかへ移動しようと疼いているように感じて、
    花憐はドギマギした。

    清人のリードは今日踊った誰よりも流暢で、踊りやすかった。
    ただ、体がやたら密着しているような気がして花憐は顔を上げることができなかった。

    気をつけていても、やはり何度か清人の足を踏んでしまった。

    「ごめんなさい・・・・。あの、痛いでしょう?もう、やめませんか?」
    「やめません」

    清人はしっかりと花憐の手を掴んで離さなかった。

    花憐は大人しく清人の言うとおりにするしかなかった。
    しかし、足は今日一日の疲労が蓄積しており、思うように動かず、とうとう躓いて転びそうになってしまった。
    清人が花憐の体を抱きすくめ、転ぶのを防いでくれた。

    「ごめんなさい・・・。やっぱり、ちょっと疲れているみたい・・・」

    清人の体からスパイシーな香水の香りがして、胸がドキリとした。
    花憐は急いで離れようと体勢を立て直した。

    清人は花憐の体を離そうとせず、抱きしめたまま力を弱めなかった。

    「あの・・・・」

    見上げると、清人の危なげに煌く瞳にぶつかった。

    心臓がドキドキと高鳴り、花憐は無意識に息を止めた。

    「あなたは不思議な人ですね・・・・。洗礼された所作もできるのに、こういった所には全く無縁の
    人間であるような印象も与える・・・」

    清人が思いがけず観察力が深いことを示したので、花憐は何かがバレるのを恐れるように視線を反らせた。

    (この人は・・・・私を気にいったのではないわ・・・・)

    清人はある種の興味と好奇心を持って花憐に近づいたのだ。

    文子と花憐の間には普通の伯母と姪の関係ではない何かがある・・・・。それを嗅ぎつけたに違いない。

    そもそも、清人のような男だったら、美しい女性など見飽きているはずであり、少々着飾って綺
    麗になったとはいえ、自分のような女に惹かれるわけはないのだと、花憐は少しいい気になっていた
    自分を恥じた。

    花憐は清人を見上げた。
    少し茶色いその瞳をじっと見つめる。

    清人がどんな人物なのか、何かてがかりを見つけることはできないかといった風に、強い意志を
    たたえた眼差しでじっと見つめた。

    清人は少しも怯むことなく、花憐の目を見つめ返した。

    (この人に・・・・話してみよう・・・・)

    ドキン・・・・ドキン・・・・

    心臓が強く打ち始め、自然と冷や汗が出て、背中をツツ・・・と伝った。
    花憐にはもう選択肢などないのだ。
    今、この瞬間も貴子たちは花憐を探し歩いている。もしかしたら、この屋敷の外で花憐が出てくるのを
    待ち構えているかもしれない。

    清人が承諾するとはとても思えなかったが、だからといって、他に何ができるというのだろう。
    このまま貴子たちに連れ戻されたら、今度は体に傷をつけられるだけでは済まないだろう。
    外には一歩も出られない顔にさせられるに違いない。

    「あなたに・・・お願いがあります」

    ただならぬ雰囲気で口を開いた花憐を見ても、清人は動じなかった。

    「なんでしょう?」

    花憐は祈りをささげる時のように両手を組んで力を込めた。

    「私と・・・結婚してほしいのです」

    搾り出すように奮える声で花憐は告げた。

    これにはさすがに清人も面食らった様子で、目をわずかに開いて絶句した。

    「先の話ではありません。今すぐにです。明日にでも」

    花憐はたたみかけるように言った。

    「結婚だって・・・・?」

    清人は花憐の顔をまじまじと見て顔をしかめた。

    数分前に初めて話した相手に、まさか結婚を申し込まれるとは思ってもみなかっただろう。

    清人はすぐに笑って流した。

    「いろいろな女性と出会ってきましたけど、こんなに早くプロポーズされたのは初めてだな」

    冗談だと流されそうになっても花憐は引かなかった。

    「冗談ではありません。私はあと3ヶ月で24歳になります。24歳になるまでに結婚すれば、
    父の遺産の多くが入ることになってます。24歳になってしまうと、その権利がなくなります。
    法廷で定められた分は相続できますが、きっとそれも父の内縁の妻であった女に奪われてしまうでしょう。
    家も奪われてしまうのです」

    花憐の真剣な表情を見て、清人の笑みは消えた。

    「お金は私が一人で細々と生活していけるだけ残してくれれば、全てあなたに差し上げます。
    私は父と母と暮らした家が残ればそれでいいのです。浜名湖にある土地も銀座にあるビルも
    あなたに差し上げます。

    あなたの今ある生活や交友関係を変える必要もありません。好きな方と好きなだけお付き合いして
    いただいてかまいません。私と一緒に暮らす必要もないのです。今まで通りの生活を続けてください」

    花憐の話を、清人は注意深く伺っていた。
    信じろと言っても信じられる話ではないだろう。
    花憐は少しでも清人が自分の話に興味を持ってくれますようにと祈った。

    「・・・大事なことが抜けてるな」

    清人の声のトーンが一段下がる。
    花憐はドキリとして清人の鋭い眼差しを見つめた。

    「遺産はいくら入るんです?」
    「・・・・4億ほどだと聞いてます」

    清人の喉がわずかに鳴るのが聴こえた。
    瞳の奥が光り、清人にとって魅力的な金額だったことが花憐に伝わった。

    「つまり・・・。表面上だけの結婚をしてほしい、と言っているわけだ」
    「そうです」
    「君が受け取る財産のほとんどを俺に譲るだって?」
    「はい」
    「更には、俺がどんな女とつきあっても口を出さないと?」
    「その通りです」

    清人は信じられないといった様子で頭を横に振った。

    花憐は火傷のことは告げることができなかった。隠し通すつもりだった。
    自分と実際に夫婦の関係を持ってもらう必要はない。他の女性と付き合ってもいいという提案は
    そういった理由もあった。

    「君はどうかしてる。そんな結婚を本当に望んでいるのか?そもそも、君の話がいったいどこまで
    本当なのか・・・・」
    「相続の管理をしている弁護士がいます。その方に確認していただいてもかまいません」

    清人は何か言おうとして口を開きかけたが、花憐のまっすぐな瞳を見ると、所在なさげに
    うろうろと歩き始め、先ほどのベンチにドカ!と座った。


    「とても魅力的な話だけど、では君にはどんなメリットがある?ただその家を守りたいだけ?」
    「父が死んでから10年近く、私は閉じ込められて生きてきました。とても・・・人間らしい生活とは
    いえない暮らしでした。そこから抜け出したい気持ちも強くあります。あの人たちに私の人生までも
    奪う権利などないはずですから・・・。自由になりたい、父と母と暮らした家で静かに暮らせたら、
    それ以上の幸せはありません。私が望むのはそれだけです」

    清人はじっと花憐を見つめながらも、落ち着かない様子で体をわずかに揺らしている。

    「・・・・その話をしたのは、私が初めて?」
    「そうです」
    「なぜ私を選んだ?金に困っているように見えた?それとも誰かから何かを聞いた?」
    「いいえ・・・。ここにいる方たちは皆さん、お金に困っているようにはとても見えません。
    しかし、お金をどんなに持っていても、更に求める人が多いことは知っています。それにあなたは・・・
    束縛されないという条件つきの結婚に魅力を感じてくれるのではないかと思ったからです」

    清人は花憐を見つめて少しの間黙り込んだ。
    花憐は怯まず清人を見つめ返す。

    「・・・君は、俺が多くの女性と付き合えなくなることを危惧してあえて独身を貫いていると考えた。
    結婚後も自由にしていいと提案すれば、俺がその結婚に興味を示すと思った。そういうこと?」
    「そうです」
    「確かに・・・・君の言う通り、俺はこの先一人の女性とだけ関係を続けていけるような性質ではない。
    その点の見解は間違っていないが・・・」

    清人はようやく落ち着きを取り戻したようで、先ほどのように足を組んでゆったりとした姿勢で座りなおした。

    「・・・・もし俺が断ったらどうするの?他の結婚相手を探しにいく?」

    パーティー会場に戻って、結婚相手を次々に探すような真似をしたら文子に迷惑がかかる。そんなことは
    できないことだった。しかし、花憐はゆっくり頷いてみせた。

    「そうするしか、方法がありませんから」

    花憐はまっすぐ清人を見つめた。
    強い意志を持っての提案なのだとわかって欲しかった。

    「なるほど。君に結婚してくれと言われたら、喜んでする奴らばかりだからな。5人もまわらないうちに
    君は結婚相手を見つけることができるよ」

    花憐は断られるのだと、一瞬気落ちした。
    しかし、次の瞬間清人に手を掴まれて引き寄せられていた。

    ベンチに座った清人の目の前に立たされた。

    「携帯電話は?」
    「持っていません」
    「・・・今夜はここに泊まるの?しばらくこの屋敷に?」
    「今夜はここに泊まらせてもらいます。でも、明日には出るつもりでいます。そう長いことこの家に
    いるわけにはいきません」

    清人は花憐の手の甲を撫でた。視線は遠くを見ており、どうやら無意識に指が動いているといった様子だった。

    「・・・少し考えさせて欲しい。いや、わかってる。君にはどうやら時間がないみたいだから、明日の朝には
    返事をする。だから他の男に頼みに行くのは、今日はもうやめてくれないか」

    少し考えたい・・・。

    当然のことだろう。しかし、清人が言うように、花憐には時間がなかった。
    明日の朝になってやっぱりダメだと言われたら、あとはどうしたらいいか、もう花憐には考えることが
    できなかった。

    表情を曇らせた花憐を見て、清人は付け足すように言った。

    「心の整理がつかないだけで、もう本当は決まってるんだ。君はなかなか良い人選をしたよ。俺は今、
    君の掲示した金がとても欲しい状況だからだ。あなたに一目ぼれしたから結婚してほしい、という場合は
    すぐにお断りするが、お互いの私欲のための結婚だというなら前向きに考えられる」

    清人のその言葉に花憐は驚きと同時に喜びを露わにして、その場に跪いた。

    「本当ですか・・・・!?」
    「待って。まだ喜ばないでくれよ。まだ君を信用したわけでもないし、決心したわけじゃないんだ。
    でも、俺は自分のことを良くわかってる。この話を蹴ることはないだろう。まずはその弁護士に確
    認をしないと・・・」
    「大河さん・・・!」

    花憐は拳を合わせて清人を見つめた。
    自然と涙が溢れ、頬を伝った。

    清人は、喜ばないでって言ってるのに・・・と小さく呟いてため息をついた。


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