Close to you 【前編】


  • 古都子はプールサイドのパラソルの下、デッキチェアに座り、ぼんやりと空を眺めていた。

    こんな風にのんびり空を眺めるなんて久しぶりだ。

    プーケットの豪華なホテルのプールサイドでトロピカルカクテル片手に、というシチュエーションであれば
    人生で初めてのことだった。

    昨日までオフィスで頭を抱え、店舗を言ったり来たりしていたことと比べると、まさに夢のようだ。

    日本でのことを思い出し、古都子は小さくため息をつく。

    ため息が出たのは、慣れない海外旅行のせいだけではなかった。
    古都子に任された’大きな仕事’のせいだった。それも二つ。

    一つは大手総合商社との契約を結ぶこと。
    もう一つは弟の悟を日本へ連れ戻すこと。

    両方とも父から命令された仕事だ。

    古都子の父はアパレルメーカーの社長である。
    国内で急激に業績を伸ばし、海外進出を目論んでいた。グローバルなネットワークを持つ商社にそれを手がけ
    成功させてもらおうというわけである。

    しかし、古都子は賛成しかねていた。海外進出は時期尚早な気がしたし、父が思うほど利益が上がるとも
    思えなかった。

    そもそも、商社側が父の会社に対して将来性や面白みを感じてくれるかどうか、である。
    国内で急激に業績を伸ばしたと言っても、海外で果たしてどこまで通用するのか・・・。
    古都子の不安をよそに、父は絶対に契約を結んでこいと古都子に言いつけた。

    父から与えられた重圧に、古都子は参っていたのだった。

    そして、弟の悟・・・。

    半年間消息不明だった悟から古都子のもとへ連絡があったのは一週間ほど前のことだった。

    どこにいるのかと尋ねると、ベトナムにいるのだという。
    古都子は驚きながらも、とにかく帰ってきてほしいと説得したが、効果はなかった。

    それではせめて会って顔を見せてくれと懇願した。
    悟がいなくなって以来、母はまったく元気がなかったし、父はほっておけといいながら、常に機嫌悪そうに
    顔をしかめている。

    みんな心配していたのだ。もちろん古都子も。

    『会っても俺の気は変わらないよ。でも、姉さんが会いに来るっていうなら会ってもいい』

    古都子はわかったと頷いた。会って話をすればもしかしたら気が変わるかもしれない。
    とにかく居場所をつきとめなくては。

    しかしそのもくろみは外れた。悟はベトナムではなく、プーケットに来いという。
    ベトナムで知り合った女性が、プーケットでホテルを経営しており、安く泊まらせてくれるのだという。

    おそらく、その女性と’そういう関係’になったのだと古都子は察した。
    彼女とのプーケット旅行に合わせて古都子にもプーケットに来いと言っているのだ。

    ここで悟の機嫌を損ねてはいけない。さんざん探した挙句、生きていることを確認できただけでも
    ありがたく思わなくては。

    古都子は了承し、日程と、ホテルの名前と場所を聞いて電話を切った。

    母に話せば、必ずついてくると思い、話すのをやめた。今回に限っては特に冷静に話し合う必要がる。
    おそらく母には無理だろう。

    古都子は父に、プーケットに行きたいとだけ言った。
    父はすぐに悟に会いにいくということを察知し、『必ず連れて帰れ』と言って古都子に背を向けた。

    古都子はすぐに飛行機を手配し、プーケットへ来たのだった。

    悟の指定してきたホテルはヴィラタイプのもので、古都子が驚くほど豪華だった。

    アジアンテイストのデザインのロビー、水が張られた中庭から温かい日差しが差し込む。

    うるさ過ぎないよう、絶妙なバランスで配置された豪華な調度品・・・。
    悟が予約して代金も支払済みと言うが、いくら貯金があるとはいえ、無職の悟が払えるものなのだろうか。

    通された部屋に入り、古都子は余計に悟は大丈夫だろうかと危惧した。

    モダンアジアンテイストでまとめられた部屋。
    キングサイズのベッドがある寝室は壁一面ガラ張りで、青い海が広がる。
    大きなリビングから外へ出ると、広いテラスが続いて、そのままビーチへと出ることが出来る。
    あまりの豪華さに古都子は唖然とした。

    悟は2泊分取ってくれている。いくら安く泊まらせてもらえると言っても1泊5万円はするだろう。

    ベッドに腰掛け、しばらく悟の現状を心配していた古都子だが、明日会って話を聞けばはっきりするだろう、
    今悩んでいても仕方がないと開き直り、古都子は白とブルーのキャミソールを重ね着し、デニムのショート
    パンツに着替えてホテル内を散策していた。

    ひととおり散策した後、プールバーにたどり着き一休みしているのだった。


    優しい風が吹き、古都子の頬を撫で、ふんわりとパーマのかかった長い髪が揺れる。
    センターパーツの長い前髪が少し乱れ、古都子は指で整えた。

    悟と会うのは明日の朝だ。契約の話はもちろん日本へ帰ってからである。

    今はこの優雅なひとときを満喫しよう・・・。

    (素敵な恋人と一緒だったら、言うことないんだけれど・・・)

    古都子がそんなことを考えていた時だった。

    「こんにちは。日本の方ですよね?」

    声をかけられてハッとする。隣のパラソルにいる男性に目をむける。

    「はい・・・そうですが・・・」

    古都子がここへ来た時、男性はサングラスをかけて寝ていた。背が高く筋肉質の引き締まった体と、
    鼻筋の通った様子でてっきり欧米の男性かと思っていたのだった。

    サングラスを外して見えた力のある瞳は黒く、古都子を値踏みするように見つめていた。
    男の視線が古都子のこげ茶色の大きな瞳から桜色の唇、小さな顎、鎖骨へと降りていく。途端に露出が
    高い服装でいることが恥ずかしくなる。

    「お一人ですか?」
    「一人?あの、弟が・・・。いえ、ええと、一人です・・・今は・・・」

    古都子は答えに困り、うろたえて言った。

    (何をうろたえてるの。別に誘われてるわけでもあるまいし・・・)

    そう思っても、端整な顔立ちと男らしい体格に加え、身体の奥まで響いてくるような低音の美声の持ち主を
    目の前にして、狼狽しないほうが難しいというものだった。

    少しクセのある髪はあえて手入れをしてないようで、目にかかるほどに伸びた前髪が少し幼さを演出して
    いるが、大人の男の余裕と自信が溢れている。30代前半あたりだろうかと古都子は思った。

    「では、少しご一緒してもいいですか?」
    「え?ええ・・・」

    古都子はこういったことに全く慣れていないが、それを悟られないように、なんともないという風に頷いた。


    そんな古都子を見て男性は優しく微笑むと立ち上がり、古都子のパラソルの下にあるもう一つの
    デッキチェアに座った。

    濃紺の膝までのハーフパンツの水着からは長い足がスラリと伸び、羽織っただけの上質な白いシャツの
    間から引き締まった身体が見える。

    古都子はドキドキして、どこを見たらいいのかわからず視線をそらせた。

    「プーケットは初めてですか?」

    男性は上半身を起こして古都子に向かい合うように座りなおして言った。

    「ええ・・・。あなたは?」
    「私はもう何度も来てます」
    「そうなんですか・・・お仕事かなにかで?」
    「仕事でもプライベートでも。今回は・・・両方ですね」

    何の仕事をしているのか聞こうと思ったが、自分が聞かれたくないのでやめた。

    「いいですね。私、海外が今回で二回目だから、なんだか緊張してて・・・。日本の方に会えて嬉しいわ」
    「私で良ければいつでもお相手しますよ」

    社交辞令に過ぎないとわかっていても、誘うような艶めいた口調に、古都子は胸が高鳴るのを抑えることが
    できなかった。

    男性が手にしていたグラスビールに口をつける。思わず唇に視線が向く。

    「いつ日本から?」

    聞かれてハッとする。物欲しそうな顔をしてなかったかしらと、慌てて笑顔を作る。

    「今日です。先ほどここに到着したばかりで・・・。少し散策していたところなんです」
    「では、まだ観光をしていないのですね?」
    「ええ・・・。でも、今回は観光に来たのではないので・・・。ホテルでゆっくりするつもりです」
    「それはもったいないですね。せっかくプーケットまで来たのに」

    古都子自身もったいないと思っていた。しかし、観光が目的ではないのは事実だったし、一人で見知らぬ
    土地を徘徊するのは不安だった。

    「本当に・・・。でも一人で観光するのも怖くて・・・」

    そう口にしてすぐ古都子は後悔した。
    遠まわしに一緒にまわってくれと言ってるように聞こえなかっただろうか・・・。

    男性は少し何か考えたあとに古都子に尋ねた。

    「・・・いつまでここに?」
    「明後日に日本に帰るので、それまでここにいる予定です」
    「’一人’なのは、今日だけ?」
    「明日の朝にならないとわからないんです・・・。その、弟に会うので・・・」

    男性はわずかに頷くと、さっと古都子の方に手を差し伸べた。

    「私は間宮総司といいます。よろしく」

    古都子は突然の自己紹介に面食らった。慌てて差し出された手を握る。
    大きい手のひらが古都子の細い指をそっと包み込む。

    「大貫古都子です・・・よろしく」

    古都子はそう言うと、さっと手を引いた。

    「それなら私がプーケットをご案内しますよ」

    総司はまったく悪びれた様子もなく誘ってきた。

    「とんでもないです。私のことなどお気になさらず、ごゆっくりなさってください」

    やはり勘違いさせてしまったと思い、古都子は総司の申し出を断った。
    しかし、総司は引き下がらなかった。

    「私があなたをご案内したいんです。正直言うと、ここ何年も海外生活続きで、日本の人と会うのは
    久しぶりなんです。飢えていたんですよ。日本語に」
    「でも・・・」

    古都子は警戒心を解かなかった。いくら紳士的で魅力的だといっても、この男性が安全かどうか
    わからないではないか。現に、総司からは’古都子をものに出来る’という自信が伝わってくる。


    総司はそんな古都子を見て、微笑んだ。

    「そうですね。あなたが警戒するのもわかる。女性はそのくらい警戒心を持ったほうがいい。
    では、こういうのは?今夜はこのホテル内で過ごす。そこで私を’安全’だと思ってもらえたら、
    明日観光に行く。もちろんあなたの今後の予定が’一人’であれば、の話ですが」

    ホテル内にいれば、まだ安心できる。古都子は少し警戒を緩めた。
    明日以降は弟と過ごすことになったと言える逃げ道もあることが、古都子にその提案を呑もうと思わせた
    のだった。

    今夜一緒に食事をするぐらい問題ないだろう。
    それにこの素敵な男性ともう少し話をしてみたい・・・。
    総司の魅力に惹かれていることも確かだった。

    「お食事をご一緒するぐらいなら・・・」

    古都子はまだ少し迷いながらも、承諾した。

    「良かった」

    総司は微笑んで立ち上がる。

    「では早速着替えてきます。そうだな・・・30分後にロビーで待ち合わせましょう」
    「ええ」

    古都子も立ち上がった。さすがにこの格好でこの男性と食事をする気にはなれない。
    先ほどから総司の視線が古都子の足やウェストへと移る度に落ち着かない気持ちになっていたのだ。


    部屋に戻って、古都子は服を選び始めた。こんなことになるとは当然予想していなかったわけで、
    まともな服など持ってきていない。
    その中でも一番マシなロングのライトグリーンのワンピースを着ることにした。

    ドレッサーに向かって化粧をし直す。

    鏡に移った自分の顔を見て、ウキウキした気分になっていることに気付く。


    こんな風に男性に誘われて食事をするなんて、久しぶりだ。
    ましてや、あんなに素敵な男性に声をかけられるなんて・・・。

    日本だったらそんなこともなかったに違いない。異国の地だからこそのことだと古都子にはわかっていた。

    あっという間に30分が過ぎる。古都子は慌てて部屋を出てロビーへと向かった。
    総司は既に着替えてロビーのソファに座って待っていた。

    長い足を組み、大きな体をクッションに預けているその姿は豪華な家具に負けることなく、貫禄を見せていた。

    古都子を見つけて立ち上がる。
    総司は黒い半袖シャツにジーパンというラフないでたちだったが、背が高く、スタイルがいいため
    立っているだけで目立つ。

    「ごめんなさい。お待たせしちゃったかしら」
    「いいえ、時間通りですよ。それにあなたを待つことは全く苦ではありません」

    女性を気遣う言葉をさらりと言うあたりが、女性に慣れていることを伺わせる。
    それだけではない。ちょっとした段差でも手を差し伸べるし、ドアを開けて通してくれる。

    レディファーストが身についていて、自然な総司に対して、そうされることに慣れていない古都子の動きは
    ぎこちなかった。

    いくつかあるレストランのうち、海が一望できるタイ料理のレストランへ入った。

    「お酒は飲む?」
    「ええ」

    総司はシャンパンだけ自分で選び、料理は古都子に選ばせた。
    どんな料理か想像がつかない古都子に丁寧に説明し、これはちょっと辛いけど大丈夫?などと助言を
    してくれる。

    総司が注文を終えると、古都子はふぅと息を吐いた。


    「疲れましたか?」

    総司が古都子をまっすぐ見つめ気遣う。
    古都子は目を合わせていられずうつむいた。

    「少し・・・」
    「緊張してる?」
    「すみません。あまりこうやって・・・男の人と食事することがないものですから・・・」

    古都子は正直に答えた。
    総司は運ばれたシャンパンをウェイターが注ぐのを制止しボトルを奪うと、自分で古都子のグラスに注いだ。

    「それならまずはシャンパンを飲んで、それから・・・敬語を使うのをやめる。丁寧な言葉はどうしても
    距離をつくるからね」
    「そうね。そうしま・・・そうするわ」

    総司は満足気に頷くと、グラスを軽くあげた。

    「乾杯」

    古都子もそれに続いて乾杯と言ってシャンパンを口にする。
    パチパチと小さい泡が口の中で弾ける。

    総司は海外旅行の経験が少ない古都子に、タイのことやその他に行った国のことなどを話してくれた。
    ほとんど海外生活と言っていただけに、総司が口にする国の数の多さは旅行が趣味というレベルではない。
    仕事で海外をまわっているという話は本当のようだ。

    「一番行ってみて楽しかった国は?」

    料理が運ばれ、アルコールもほどよく体をまわり始めると、古都子はだいぶリラックスして話すことが
    できるようになった。

    「んー・・・楽しかった国はたくさんあるけど・・・。何度も行きたいと思うのはメキシコかな」
    「メキシコ?どうして?」
    「どうしてだと思う?」

    総司がいたずらっぽく古都子の目を覗き込む。
    古都子はその顔で察した。

    「・・・男の人の’楽しい’基準は結局そこなのね」

    古都子は少し拗ねたように言った。

    「そこって・・・何だと思うの?」

    総司は笑って尋ねる。古都子をからかって楽しんでいるのだ。

    「女性が・・・魅力的かどうかってことでしょう?」

    古都子は素っ気無く言った。

    「まあ、そうだね。確かにメキシコの女性はとても魅力的だよ。でもそれだけじゃない。みんなとにかく
    陽気で、エネルギッシュで、人生を楽しんでて・・・一緒にいると嫌なことを忘れる」

    総司は少し目を細める。メキシコを思い出しているようだった。

    (嫌なことを忘れる・・・か・・・)

    総司のような自信に満ち溢れて余裕があるように見える人にも、嫌なことがあるのだなと古都子は思った。

    「ところで君は何の仕事をしてるの?」

    その質問に古都子は表情を暗くした。父を思い出し、気が重くなる。

    「父の・・・会社の手伝いをしてるの」
    「あまり仕事の話はしたくないみたいだね」

    総司は残っていたシャンパンを全て古都子に注ぎながら言った。

    「どうしてわかるの?」

    古都子は驚いて総司を見つめた。

    「君が俺の仕事について何も聞いてこないからさ。普通、気になるだろ?何の仕事してるのかって」

    警戒していたわりに、総司の素性を聞きたがらないのは、自分が聞かれたくないからだということを、
    総司は見破っていた。

    「あなたは・・・何の仕事をしてるの?」

    古都子はなるべく自然になるように質問したが、総司には誤魔化しは効かなかった。

    「君と同じさ。’父の会社の手伝い’をしてる」

    ふざけた様子で答える総司を見て古都子は笑った。

    「あなたの言う通りよ。仕事の話はしたくない。まさに今は’嫌なことを忘れたい’気分なの」
    「君が嫌なことを思い出すか出さないかは、俺の腕によるわけだ」
    「そうよ。あなたが私を誘った以上は、うんと楽しませてくれなきゃ」
    「なるほど。かしこまりました。ではお姫さま、お次はワインにしますか?それともリゾートにぴったりの
    スイートなカクテルですか?」

    総司はうやうやしくメニューを広げて古都子に見せた。
    古都子もわざとらしく気取って顎をあげてありがとうと言って笑った。

    総司との軽快な会話を古都子は心から楽しんでいた。

    総司の話は飽きることがなかったし、細かい気配りも嫌味ではなく心地よかった。
    そして時々、じっと古都子を見つめる目が艶やかにきらめき、ドキリとさせる。

    良い男とはこういう人のことを言うのだな・・・と古都子は思った。



    食事を終え、ロビーにあるバーに移動する。
    暗闇の中庭にオレンジ色の灯りが等間隔に灯る。
    光が揺れる水面に移り、幻想的な雰囲気を醸し出していた。

    古都子はコーヒーを飲みながら、ぼんやりと灯りを見つめた。
    総司はウイスキーを手にして、古都子と一緒の隣に座っていた。

    (なんだか・・・本当に夢みたい・・・)

    カラン・・・と氷が溶けグラスを鳴らした。

    見ると総司がじっと古都子を見つめている。
    古都子はドギマギして姿勢を正した。

    「どう?明日以降、一緒に観光する気になった?俺が’安全’だってわかっただろ?」

    (’安全’ですって・・・?この人ほど一緒にいて’危険’だと思わせる人はいないわ・・・)

    総司の左手は古都子の寄りかかっているソファの背もたれに伸び、今にも古都子の肩にふれそうだった。


    「そうね・・・。きっとあなたと一緒にまわったら、楽しいんでしょうけど・・・」

    古都子はうつむいて手にしていたカップをテーブルに置いた。

    明日の朝、悟との話し合いによっては、すぐにでも悟を連れて日本に帰る必要がある。
    あくまでも悟を連れ戻すためにプーケットへ来たのだ。出会ったばかりの男性と観光するためではない。

    「やっぱり・・・」
    「待って」

    総司は手をあげて古都子の言葉を遮った。

    「明日にならなきゃわからないんだろ?今決めないでいい。また明日聞かせて」

    総司の瞳は熱っぽく潤んでいる。
    古都子を欲しているのが伝わり、古都子の体は熱くなった。


    総司と一緒にプーケットを観光できたらどんなに楽しいだろう。
    古都子の心は揺れた。

    「わかったわ・・・」



    古都子は総司の目を見つめ返して言った。
    総司は手にしていたウィスキーをグイっと飲み干すと、ヴィラまで送ると言って古都子の手を引いて
    立ち上がった。

    ヴィラの扉の前で二人は立ち止まり、向かい合った。

    「今夜は・・・ありがとう。とても楽しかった」

    古都子は総司を見上げて言った。古都子も決して背が低いわけではなかったが、こうやって近くで並ぶと
    総司は本当に背が高いことがわかる。

    総司はそっと古都子の手を取り、甲に軽くキスした。
    古都子の心臓がドクン・・・!と鳴った。

    「明日・・・プールサイドで待ってるよ」

    総司はおやすみと言って去っていった。
    古都子は立ち尽くし、総司の背中を見つめた。

    ただ単におやすみの挨拶ではないか。海外暮らしの長い総司なら、余計に深い意味などないのだ。

    (深い意味なんかないわ・・・。もしあったとしても・・・もし私と’何かしたい’のだとしても、
    ちょっとしたお遊び程度のものでしかないんだから・・・)

    そんな簡単な女じゃないと呟いてみたものの、古都子自身、疑いようもないほど総司を欲していた。
    長い間男性と付き合うこともせず仕事に没頭してきた。
    そこへ素敵な男性が現れたとあれば、誰でも喜ぶに違いない。

    総司にキスされたら・・・。あの腕に抱かれたら・・・。

    そんなことを想像して顔が赤くなる。つい先ほど会ったばかりだというのに、そんな風に考えるなんて、
    ふしだらだわと自分を叱咤した。

    頭を振って妄想を取り払う。

    部屋に入ると、ドッと疲れと睡魔に襲われた。

    昨日遅くまで仕事をして、今日プーケットに着いたばかりである。疲れて当然だ。
    古都子はシャワーを浴び、ベッドに倒れこんだ。

    体が鉛のように重い。古都子はふかふかの枕に顔を埋めた。
    総司との楽しかったひとときを反芻したいのだが、睡魔には勝てず、そのまま眠りに落ちていったのだった。



    ドアのノックの音で目が覚めた。慌てて起き上がると時計は10時を指している。

    「姉さん?」

    悟の声だった。古都子は下着のまま眠ってしまっていた。慌ててTシャツとジーパンを履く。
    急いでドアを開けた。

    「悟・・・!」

    そこには髭を生やし、髪も伸びきってボサボサの悟が立っていた。
    少し痩せて大きな目の下にクマができている。

    古都子は泣きそうになるのを必死に堪えた。
    悟はニコ・・・と笑うと部屋に入ってきた。

    「今起きたの?ごめんな、疲れてるだろ?」
    「私は大丈夫よ。あなたこそ・・・ずいぶん痩せたみたい・・・。大丈夫なの?ちゃんと食べてる?」
    「大丈夫だよ。日本にいる時と違って、体もよく動かすようになったから少し引き締まっただけ」

    そう言って冷蔵庫のビールを取り出し飲み始めた。

    「それに・・・こんな豪華なところ取ったりしていいの?」
    「金のこと?」
    「そうよ」
    「大丈夫だよ。日本にいる時、金使う暇もなかったから貯金はあるし、それにマンション売ったから」
    「売ったって・・・、世田谷のマンションのこと!?」
    「ああ」

    世田谷のマンションは父が悟の名義で購入したものだ。
    悟はどうでもいいといった風に返事をすると、テラスへ歩いていった。
    古都子もそれに続く。心地よい風が頬を撫でた。

    「悟・・・いつまで続けるつもり?」
    「俺は帰らないよ」

    悟は海をまっすぐ見つめて即答した。

    「お父さんが心配してるの、わかってるでしょう?」
    「父さんが心配してるのは俺じゃない。会社のことだ」

    姉さんもわかってるだろ?といった風に悟は古都子をチラと見た。

    「そんなことないわ。悟が無事戻ってきてくれるなら、それだけでいいと思ってるのよ」
    「それ、本気で言ってる?そんな人情的な人だったら、とっくに日本に戻ってるよ」
    「じゃあ、一生日本には戻らないつもりなの?」
    「さあ・・・どうかな。少なくとも今はまだ帰るつもりはない」

    悟はきっぱりと言った。

    「・・・お父さんは海外進出を考えてるわ。あなたの力が必要なのよ」
    「よしてくれよ。姉さん。自分が大変だからって、俺におしつけるのはやめてくれ」
    「違うわ!お父さんがあなたを必要としてるのよ!」
    「だったら!あの時俺に頭を下げるべきだったんだ・・・!」

    悟が拳を握って叫んだ。

    悟は時期社長として、父のもとで働いていた。
    高校卒業と同時に大学へ通いながら父のあらゆる仕事に同行し、徹底的に経営を叩き込まれていた。

    古都子も父の会社の社員となっていたが、与えられる仕事の責任で比べれば、悟の方が格段上だったのである。

    仕事人間の父は、家庭と会社の区別をしない。
    休みも、家に帰ってからも仕事の話ばかりだった。
    一人前になるまで恋愛などするなと言って、まともに恋人を作ったこともない。

    悟は努力家で一生懸命仕事をこなし、実力をつけていた。
    業績を伸ばしてきたのも悟の仕事のおかげといって過言ではない。

    それでもずっと耐えてきた悟だったが、ある事をきっかけに、我慢が爆発してしまった。
    悟が実力を見込んで中途採用した大学時代の友人を、父が確たる証拠もないまま企業スパイ扱いし、
    クビにしたのである。

    この件で、悟と父は大いにもめ、父の理不尽な振る舞いにとうとう耐え切れなくなった悟は家を出て
    行ったのだった。

    「いや違う・・・俺じゃなくて、傷ついてるのはあいつだ。あいつは・・・今でも心を病んで、
    仕事どころか外にもまともに出ることができないんだ・・・」

    企業スパイと疑われた友人のことを言っているのだった。
    悟はうつむいて下唇を噛んだ。

    「それだったらなお更、あなたが戻って彼の汚名を晴らすべきだわ」
    「姉さん、何もかももう遅いよ。俺はギリギリのところで父さんに従ってきた。一度限界を超えて
    飛び出したら、戻る気にはなれない。わかるだろ?」
    「悟・・・」

    悟は古都子を見つめると、寂しそうに微笑んだ。

    「姉さんには悪いけど、俺は脱落させてもらう。このヴィラはせめてものお詫びのつもりだから、
    楽しんでいって。日本に帰ったらまた地獄の日々が待ってるんだから」

    そう言うと出口へと向かって歩き出した。

    「悟・・・・!待って、もう少し話を・・・」
    「何時間話しても同じさ。ごめん、人を待たせてるから」
    「あなたもこのホテルに泊まるのよね!?夜にでも・・・」
    「いや、今から別の場所に移動するんだ」

    古都子は悟の腕を掴んで止めた。

    「待って!じゃあ、せめて居場所を・・・。ベトナムのどこにいるの!?」
    「・・・・また連絡するよ」

    悟はそっと古都子の手を外した。

    「悟!お母さんに電話だけでもしてあげて・・・!」

    バタンと扉が閉まる。悟は古都子が言い終わる前に、出ていった。

    (もう・・・!)

    日本に連れ戻すどころではない。まともに話もできなかった自分に苛立って扉を叩いた。
    悟の意思は固かった。彼が言うように何時間話しても同じだろう。
    古都子は頭を抱えて座り込んだ。

    悟の気持ちが誰よりもわかるだけに、無理に日本に連れ戻すことなどできないということも身に
    染みて理解していた。

    それでもここまで来たのは他でもない。父に認められたかったからだ。
    どうにかして悟を連れ戻し、良くやったと褒めてもらいたい・・・。

    父はいつだって悟が一番だった。自分の愛する会社を託すことができるのは悟のみ。
    古都子は何番目でもなかった。悟の代わりとしても扱われることはない。

    どんなに仕事をうまく運んでも、それがあたりまえで、褒められることなど一度もなかった。

    悟がいなくなってみて、それを痛感した。
    父は強がっていながらもかなり堪えているのがわかったし、実際、会社としても悟がいないことは
    大きく影響していた。

    今回連れて帰れないことで、父は古都子に失望するだろう。

    古都子は大きくため息をついた。

    悟を連れ戻すことに失敗したのなら、早々に日本に帰って仕事に戻ろう。
    もう一つの商社との契約の準備を始めたほうが良さそうだ。

    古都子がゆっくり立ち上がった時だった。

    コンコン、と扉がノックされる。

    悟が戻ってきたのかと思い、慌てて扉を開けると、そこにはホテルのスタッフが花束を抱えて立っていた。

    「ミスター・マミヤ、カラ、プレゼントデス」

    スタッフは覚束ない日本語でそう言うと古都子に花束を渡した。

    「間宮・・・」

    古都子はthank youと言って花束を受け取り、部屋に入った。

    胡蝶蘭とダリアの豪華な花束だった。
    昨日の夜、好きな花を聞かれて古都子が答えたのがこの二つの花だった。

    こんな風に花束をもらうのは生まれて初めてだった。
    古都子の胸が熱くなる。まるで物語の主役にでもなった気分だ。

    総司の魅惑的な黒い瞳を想い出す。

    会ったら一緒にプーケットを観光したいと思うとわかっていた。
    日本に帰るなら、会わずに帰った方がいいに決まっている。
    それでもこの花束のお礼だけは言いたかった。

    ダリアを一本引き抜いて、急いで昨日のプールサイドへと向かった。

    総司に会うと思うだけで、気持ちが明るく、軽くなる。落ち込んだ気分を一瞬ですくい上げてくれる。

    ロビーを通ってプールサイドへ向かう。すぐに昨日総司が座っていたデッキチェアへと視線を向ける。
    しかし、そこに総司はいなかった。プールサイドを見渡しても見つけられなかった。

    古都子はハッとした。
    もしかしたら、急用かなにかで待つことができなくなり、会えなくなったというお詫びの花束だったのかも
    しれない。

    (そうよね・・・。そんなに都合のいいことばかり起こるはずないわ・・・)

    古都子は肩を落とし、デッキチェアに座った。


    「来てくれたんだね」

    背後から声がして振り返ると、総司が本を片手に立っていた。

    「君を待っている間に1冊読み終わって。新しい本を買いに行ってきたんだ」

    そう言って古都子の座っているデッキチェアの空いているスペースに腰掛けた。
    総司の体がふれあいそうなほどに近づき、古都子の鼓動が早まる。

    「・・・お花、ありがとう。とっても嬉しかったわ。お礼が言いたくて・・・」

    古都子はなんとか総司と目を合わせてそう言った。
    本当はまともに見ていられそうにないくらい心が乱れているのに、吸い寄せられるように総司の瞳に
    捕らえられてしまうのだった。

    総司は優しく微笑むと、古都子の手にしていたダリアを取り上げ、古都子の耳の上にそれを飾った。

    「君にとても良く似合ってる」

    古都子は照れてうつむいた。

    「ただ・・・できれば二人きりの時に、君の素顔を見たかったけど」

    総司はニヤっと笑いながら言った。
    そこで初めて古都子は自分がノーメイクだったことを思い出した。
    途端に青ざめる。

    「私ったら・・・!」

    古都子は慌てて立ち上がった。
    悟との話のあとで、メイクのことなどすっかり忘れていた。

    総司が古都子の手を掴んで座らせる。

    「気にしないでいいのに。こんな風に言ったら怒るかもしれないけど、素顔の方がずっと綺麗で可愛いよ」

    今度は耳まで赤くして古都子は手で顔を隠した。

    「お願い・・・一度部屋に戻らせて・・・」
    「必ずここに戻ってくるって約束するなら、いいよ」

    総司は古都子が日本に帰ろうとしているのを察知しているかのように言った。
    掴んだ古都子の腕を優しく撫でる。

    「わかったわ・・・」

    古都子は一刻も早く部屋に戻りたい気持ちでそう言うと、総司から離れて部屋に戻った。

    ただでさえ総司に見つめられただけで落ち着かないというのに、化粧をしていないとよりいっそう
    無防備になった気がして目を合わせて話も出来ない。

    部屋に戻ると日本の新聞とフレシュジュースが届けられていた。

    古都子は新聞を見てため息をついた。父に契約するように言われている商社の名前が大きく載っていたからだ。

    『日本に帰ったらまた地獄の日々が待ってるんだから』

    悟の言葉を思い出す。

    (そうよ・・・。私だってまともに休むこともなく、旅行も恋もしてこなかった・・・。
    少しぐらい楽しんだっていいはずよ・・・)

    悟のように逃げ出すまではいかないまでも、今この夢のような時間を楽しんだっていいではないか・・・。
    古都子はそう自分に言い聞かせた。

    あまり濃すぎない化粧をして日焼け止めを入念に塗りこむ。
    薄い黄色のキャミソールに紺色のサブリナパンツ。シルバーのアンクルストラップサンダルを履く。
    白いシャツを羽織ってツバの大きい帽子とバッグを手にして総司のもとへ急いだ。

    総司はロビーで待っていた。
    古都子を見ると、素直に嬉しそうな顔をする。古都子は少年のような笑顔にドキリとした。

    「プーケットを案内させてくれるってことだね?」
    「ええ。でも・・・本当にいいのかしら?」
    「もう決めたんだから、迷ったらだめだ。さあ、行こう」

    総司に続いて外へ出る。空港からまっすぐホテルへ来たから、こうして外へ出るのはとてもワクワクする。
    ’旅行に来た’気分になる。

    「まずは移動手段だけど・・・よし、あれにしよう」

    そう言って総司が向かった場所はレンタルバイク屋だった。

    「まさか・・・バイクでまわるの?二人乗りで?」

    古都子は驚きを隠せずに言った。

    「そうだよ。何か問題でも?」
    「乗ったことないわ」
    「安心して。君に運転させるつもりはないよ」
    「待って・・・!」

    総司は古都子を無視してレンタルの手続きを始めた。
    ヘルメットを手に戻ってくる総司を古都子は不安そうに見つめた。

    「大丈夫。そんなにスピード出さないから。はい。これかぶって」

    古都子の頭の帽子を取り上げヘルメットをポンと乗せる。
    総司は自分もヘルメットをかぶると、バイクにまたがりエンジンをかけた。

    総司の大きな背中をみつめていると、大丈夫だと思えてくるから不思議だ。
    古都子は総司の後ろに乗り、どこをどうつかめばいいのか躊躇っていた。

    「しっかりつかまって」

    帽子をバッグに押し込み、言われた通りに総司の腰に腕をまわしてしっかりとつかまる。
    バイクの二人乗りなんて初めてだ。古都子はドキドキと胸を高鳴らせて体を総司に預けた。

    走り出したとたんに全身を風が通り過ぎる。
    髪がばさばさと広がり、古都子は結べば良かったと後悔した。

    約束通りあまりスピードを出すことなく安定した走りで、古都子はすぐに二人乗りに慣れた。

    海岸に沿ってバイクを走らせる。

    青い空をバックに、日差しがキラキラと反射する海とそれを彩る緑がこの上なく美しかった。

    「綺麗・・・!」

    古都子は総司に聞こえるかわからないと思いながら大きな声で言った。
    総司はかすかに頷いて「そうだろ?」と言ったようだった。

    風を感じながら美しい景色に見とれる。
    バイクならではの楽しみに古都子はすぐに夢中になった。

    総司は道を熟知しているかのように迷わずバイクを走らせる。

    ところどころ店に立ち寄っては、現地の人とタイ語でおしゃべりをする。途中で立ち寄った屋台は
    庶民の人々が集い、観光客はほとんど立ち寄らない場所だった。

    古都子は総司はてっきりセレブな生活をしている人だと思い込んでいたが、こうして古いバイクを運転し、
    屋台で安いつみれ入りのバミー(タイ風ラーメン)を食べている姿は庶民そのものだ。
    そして古都子はあることに気がついてしまった。

    無邪気に笑う総司の笑顔の輝き・・・。

    昨日の大人の雰囲気の総司とは正反対と言ってもいい、その笑顔は古都子を何度もドキ・・・とさせた。
    きっとこれが本当の総司の顔なのだろうと古都子は思った。

    本当に楽しんでいることが伝わってくる。
    それは古都子に、自分は久しく心から楽しんだことなどなかったと思わせた。

    (この人といると・・・楽しい・・・)

    次第に古都子も総司と同じようにプーケットを楽しみ始めた。

    「おいしい!!」

    ココナッツミルクにフルーツやタピオカを入れて食べるデザートを口にして、古都子は今日何度目かの
    感嘆の声を上げた。

    「私、観光っていうから、ビーチとか有名な観光地にでも連れていってくれるのかと思っていたわ」
    「ビーチとか観光地に行きたかったら連れてくけど?」
    「ううん。全然こっちの方が楽しいからいいの」

    ニコニコしてデザートを食べる古都子を総司は眩しそうに見つめている

    「誰もいないビーチで君の水着姿をゆっくり堪能するって手もあるな」

    黒い瞳の奥が一瞬怪しげにきらめき、古都子をドキリとさせる。
    古都子は慌てて視線をそらした。

    「それは無理ね。今水着持ってきてないもの」
    「俺は裸でもいいけど?」

    総司の言葉に更にドキリとする。

    冗談だとわかっていても総司の低音の声で’裸’などと言われると、途端に体の奥が熱くなる。
    まるで服を透視されて、裸を見られているような気分だ。

    「あ、あなたは水着を持ってきてるとでも?バッグも何も持ってないじゃない」
    「だから言ったろ?裸でもいいって」

    総司が裸で蒼く美しい海の中を泳ぐ姿を想像して、古都子は耳まで赤くした。

    「わかった・・・参ったわ。降参よ。だからもうそれ以上言うのはやめて」

    総司は笑って、象に乗りに行こうと言って古都子の手を取り、歩きだす。
    本当の恋人かのように自然だった。

    象に乗り、タイのカルチャーショーを一緒に見終わる頃には、古都子は自分から総司の腕に手をかけるほど
    二人の距離は縮まっていた。

    こうして一緒に過ごしてみると、総司は本当にレディファーストが叩き込まれているのがわかる。

    「あなたって、ちょっと普通じゃないわ」
    「普通じゃない?」

    見上げて言う古都子を総司は優しく微笑んだ。

    「だって女性に対して優しすぎるもの」
    「そう?’君に対して’じゃないくて?」

    総司の意味ありげな表情に戸惑いながら言いなおした。

    「・・・少なくとも、私には」

    総司は目を伏せてふ・・・と笑った。

    「普段、優しいなんて言われないから、なかなか新鮮だね」

    古都子にしてみたら意外な言葉だった。こんなにも気がきく男性はそういないと思っていたからだ。

    「じゃあ、普段は何て言われているの?」
    「’冷酷’とか言われるね。’人情がない’とか・・・。仕事上での話だけど」
    「・・・人情はないの?例えば・・・お友達とかでも?」
    「プライベートでの付き合いのある人物だとしても、ビジネスではまず感情的になることはないね。
    むしろ、それを引き合いに出す奴とは仕事をしたくない」

    古都子はふと父のことを思い出した。
    父も仕事で感情的になるなといつも言う。
    もっとも、父にとっては家庭でも感情的になることはないのだが。

    「あなたと・・・ビジネスの場で出会わないで良かったわ」
    「同感だね。君と腕を組んで歩けないのは冷酷と言われるよりずっと辛い」

    お互い見つめ合って微笑む。穏やかな時間が流れていた。

    夕暮れ時の海沿いをレンタルバイク屋に向けて走る。
    オレンジ色に染まった海を眺めながら、総司の背中に頬を押し付ける。

    もうすぐ終わってしまう・・・。明日には日本に帰るのだ。
    古都子は二人乗りなら気兼ねなく総司に抱きつけるといわんばかりにぎゅ・・・と総司の背中に抱きついた。

    夕日が沈んでいく海は昼間見た蒼い海とは違う美しさだったが、寂しさが加わり、古都子の気持ちも
    暗くなっていくようだった。

    総司は何も言わずにバイクを走らせている。

    総司にしてみたら長い海外生活のうちのちょっとした遊び相手でしかないだろうが、古都子にしてみたら
    鬱屈した生活の中の夢のような時間だ。

    (私・・・この人が・・・・・)

    古都子は抑えきれない感情が湧き上がってくるのを感じた。

    もっと総司のことが知りたい。もっと素顔の総司が見たい・・・。

    しかし、夕日はタイムリミットがあることを古都子に告げていた。
    古都子は目をぎゅ・・・と瞑り、その気持ちに古都子は無理やり蓋をしたのだった。


    バイクを返して今度はタクシーでバトンビーチへと向かう。
    バトンビーチの繁華街であるバングラ通りに着くと日はすっかり落ちていたが、街は明るく、
    たくさんの人々でにぎわっていた。

    良く見ると、白人男性も日本人らしきアジア人も現地の女性と歩いている。

    「すごい人・・・。どこに行くの?」
    「やっぱりタイに来たら、見ておかないとね」
    「??何を?」
    「来たらわかるよ」

    総司はいたずらっぽく笑うと、古都子の手をひいてきらびやかな看板のかかった店へと案内した。

    怪しげな店内の中央で下着のような衣装で何人もの女性たちが踊っている。

    「・・・・・!」

    古都子は驚いて思わず立ち止まった。

    「ここは・・・」
    「もとは俺と同じ’男’だったレディ達さ」

    総司の言葉に古都子は呆気に取られて女性達を見つめる。
    もともと男性だったとはとても思えないほど美しく、完璧な体だったからだ。

    セクシーで激しい踊り・・・異様な雰囲気に古都子は圧倒され、総司にしがみついた。

    そんな古都子に一人のレディボーイが近づき、突然古都子を抱きしめる。
    タイ語で何かをまくし立て、古都子の手を掴み、自分の胸を揉ませた。

    「ええ!?ちょ、ちょっと・・・!」
    「’あなたより大きいでしょう?’って言ってるよ」

    総司がからかうように古都子の耳元で言った。

    「な・・・!」

    顔を真っ赤にして困惑する古都子をよそに、レディボーイは一緒に踊ろうと言って陽気に古都子の手を
    取り踊りだした。

    あまりの能天気な様子に古都子は笑い出し、最初は戸惑っていたが、見よう見まねで一緒に踊ってみる。
    ふと見ると、総司のまわりには何人ものレディボーイが集まり、体を触ったり、触らせたりしている。

    少し困ったような顔をする総司が可愛らしく、古都子は噴出して笑ったが、その中でも飛び切りの美人が
    総司にブチューっとキスするのを見ると、途端にふて腐れた。

    それでも総司の笑顔を見ると、顔が緩み、微笑まずにいられない。

    古都子はしだいに店の雰囲気にも慣れ、他の日本人の観光客と話をしたり、踊ったりして楽しんだ。

    ひとしきり踊ったあと、総司のもとに戻ろうとすると、今度は日本の女性グループと総司が話をしている。
    明らかに女性全員が総司を狙っており、どこかへ行こうと誘っているようだった。

    古都子の胸の中で嫉妬の炎がゆらりと揺れる。

    古都子が声をかけられずにいると、一人の男性に声をかけられた。

    「君、日本人?」

    若い日本の男性だった。ボロボロのジーパンにTシャツ。大学生のように見えるその男性はかなり
    酔っ払っているように見える。視線が定まっておらず、へらへらと笑っている。

    「ええ・・・」
    「やっぱり日本の女の方がずっと綺麗だなぁ。俺、もうタイの女は飽きちゃったよ。
    ねえ、これからどこか行かない?」
    「いえ、私・・・」
    「いいじゃん。ここだけの話、俺、いいもの持ってるんだよね」

    男性が古都子の耳元で怪しげに囁く。

    (いいもの・・・?)




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