Close to you 【後編】


  • 日本に帰ってからは散々だった。

    父は当然のごとく、悟を連れて帰ってこなかったことに激怒した。
    自宅の父の書斎で父と向かい合い、古都子は身を縮めた。

    「何のためにお前を行かせたと思ってるんだ!」
    「本当に申し訳ありませんでした・・・・」

    4日も仕事を休んで何の成果もなかったことに関して、父は何度も古都子を責めた。

    忌々しげに古都子を睨み、大きなため息をつく。

    『役立たず』

    父の態度ははっきりとそれを古都子に突きつけていた。
    古都子は唇を噛んでうつむいた。

    古都子自身、父に期待されて、頼られ、それを成し遂げたいと思っているのに出来ないでいる自分に
    失望していた。

    それでも悟の想いも伝えなければと思い、勇気を出して顔を上げる。

    「悟は・・・お父さんに謝って欲しいと思っているんです」
    「謝る?何故私が謝らなくてはならんのだ。ふざけたことを言うな。・・・チャンスを与えてやったと
    いうのに・・・。馬鹿者が・・・!」

    父は心底憤っているようだった。
    その怒りこそが悟への愛情の現われだと、古都子には思えてならなかった。
    おそらく自分がいなくなっても、父はここまで怒ることも追うこともないだろう。

    「もういい。一之瀬商事の仕事にかかれ」

    一之瀬と言われてドキリとする。胃がぎゅう・・・と縮まる気がした。
    古都子は声が震えないように意識して言った。

    「あの・・・一之瀬商事以外に候補に挙げていた商社についてなのですが・・・」
    「前にも言ったろう。今は一之瀬でしか考えていない。必ず決めるんだ」

    父は有無を言わせない口調でそう言うと、さっさと出ていけと右手を軽く上げた。

    総合商社のような大きな会社は小規模な商売はあまりしない。その中で一之瀬商事は、どんな規模の
    輸出も手がけ、得意としているということで父は真っ先に決めたのだった。
    同業の身近な会社が一之瀬商事によって順調に海外で売り上げを伸ばしていることも大きかった。

    古都子は頭を下げて書斎を出た。
    小さくため息をつく。総司の顔が頭に浮かんだ。

    自分が商売相手だと知ったら総司はどんな顔をするだろう。

    契約のために自分に近づいてきたと思われるのでは・・・。

    ’枕営業’と思われてもしかたがない。社長である父が、自分の娘を使って商売をしていると思われたら・・・。

    総司が最も嫌悪する部類だろうと、わずかな時間しか過ごしていない古都子にも、それは確信できた。

    自分のせいでこの話が台無しになる・・・。

    古都子は目をぎゅっと瞑った。

    せめて担当を外してもらいたいと思ってみても、悟の代わりとして任されている古都子が、更に他の誰かに
    代わってもらうわけにはいかなかった。

    真っ直ぐに古都子を見つめる黒い瞳・・・。

    純粋に総司を愛しいと思ったからセックスしたのだ。
    その気持ちを総司に疑われるのではと考えるだけで、胸が苦しくなる。

    それでも今この状況から逃げるわけにはいかない。
    プーケットでのことは全て忘れて、総司に仕事のパートナーとして認めてもらうしかないのだ。

    古都子は部屋に戻って資料作成を続けた。


    (とうとう・・・この日が・・・・)

    古都子は一之瀬商事へと向かうタクシーの中で何度も鏡を見て表情が強張らないよう意識して顔を作った。

    「古都子さん、緊張してるんですか?顔色が悪いみたいですよ?」

    一緒に同行する営業の中原がニヤニヤと笑いながら言った。
    古都子はこの男が苦手だった。隙あらば古都子とどうにかなりたいという様子で、ねっとりとした視線で
    古都子の体を見つめる。

    背が低く、前に出た腹を気にすることもなくゆさゆさと揺らし、いやらしい目つきで笑う。しかし、
    見た目とは裏腹に仕事はきっちりとこなす。父は中原の手腕を信じて、古都子と共にこの仕事を
    任せているのだった。

    「いえ・・・大丈夫です」
    「そんなに心配しなくても、僕に任せてください。『ぜひオークさんの海外出店のお手伝いをさせて
    ください』と言わせてみますよ」

    汐留めにある一之瀬商事のビルの前でタクシーが止まる。
    前回来た時とはまるで気持ちが違う。あまりの緊張で中原の話が全く頭に入らない。
    中原が受付の女性とやり取りをしている間、こっそりと古都子は深呼吸した。

    部屋に通され、担当者が来るのを座って待つ。

    ドクン・・・ドクン・・・・ドクン・・・・

    冷や汗が浮かび、喉がカラカラに渇いてくる。

    ガチャリ・・・

    扉の開く音でハッとする。中原が立ち上がったのに続いて古都子も立ち上がった。

    スーツ姿の総司がさっそうと部屋に入って来た。

    担当者の営業部長が古都子たちに挨拶をする。

    総司はまだ古都子に気が付いていないようだった。
    名刺を取り出し、中原と名刺交換を終えると、古都子へと視線を移した。

    (うつむいちゃだめ・・・!)

    視線をそらしたくなる気持ちを古都子は懸命に抑えた。

    真っ直ぐに総司を見つめる。

    古都子の顔を見て、総司は一瞬目を見開いたかのように見えた。
    古都子は思わずゴクリと喉を鳴らした。

    「一之瀬です。よろしくお願いします」

    総司はすぐに表情を戻し、いたって自然に挨拶をした。

    「オークホールディングスの大貫と申します。宜しくお願い致します・・・」

    名刺を差し出す手が震える。
    古都子は総司の表情から何かを読み取ろうと、じっと凝視してみたが、総司は名刺を受け取るとすぐに
    席について話を始めた。

    まずは古都子たちが用意した資料に目を通す。
    中原が日本での業績を述べ、海外出店へのアピールポイントを話す。

    総司は中原の話を聞きながら、メモを取る。
    丁寧に整えられた髪、少し生えていた髭も剃られてなめらかな肌が浮き彫りになっている。そして、力を
    帯びた瞳・・・。

    古都子の見たことのない総司の真剣な表情だった。

    「・・・まずはアジアでの出店をとのことですが、具体的にはどこを想定されていますか?」

    総司が尋ねると、中原ははりきった様子で答えた。

    「香港です。その後、韓国、中国と広げて行きたいと考えております」

    総司は軽く頷くと、再び資料に視線を戻した。

    「今、香港では日本のアパレル企業がこぞって出店しています。御社の’売り’は低年齢層のカジュアル
    部門とのことですが・・・。これは現地調査をした上での売り上げ予測が必要です」

    総司は契約するために揃える必要がある情報をいくつか述べた。中原と古都子は必死になってそれらを
    メモする。

    「実を申しますと、香港に御社の海外出店に興味を持っている企業があります。しかし、私は正直な
    ところ御社の現在の’売り’だけでは弱いと考えています」

    『弱い』と言われて、中原も古都子も表情を曇らせた。

    「・・・いずれにせよ、調査して確認する必要がまだありますね。次回までに材料をそろえましょう」

    総司はそう言うと、資料をまとめて立ち上がった。
    中原のアピールもむなしく、『ぜひ海外出店のお手伝いをさせてください』との言葉はもらえなかった。
    しかし、完全に拒否されたわけでもない。現実的に、どれだけの利益をもたらすかの予測を示してみろと
    総司は言っているのだ。

    「この資料はとても見やすい。どなたが作成されたのですか?」

    言われてドキリとした。古都子は咄嗟に答えた。

    「私です」

    総司は儀礼的に微笑んで古都子を見た。

    「私の部下にもお手本にさせたいくらいですよ。次回も宜しくお願いします」
    「は、はい・・・・!」

    古都子は深々と頭を下げた。かぁ・・・と耳が熱くなる。
    総司に褒められたことがこの上なく嬉しかった。

    全員立ち上がり、立ち去ろうとした時だった。

    「専務、今週末の・・・」

    営業部長が総司に声をかける。
    総司は、ああ、そうだなと思い出したように頷いた。
    営業部長がニコニコと愛想笑いをして言った。

    「今週の土曜日に専務の就任パーティーが催されます。よろしかったらお二人もご参加ください」
    「左様でございますか。それはぜひとも参加させていただきます」

    中原はすかさず笑顔で返した。

    (専務就任パーティー・・・)

    ということは、総司は最近になって専務になったことになる。
    おそらくそれまでは海外を飛び回る、いわゆる’下働き’をして、満を持して専務になったのだろうと
    古都子は思った。

    古都子の表情が硬くなる。本音を言えば参加したくなかった。

    「どうぞお気軽にご参加ください。では、私は次の打ち合わせがありますので、ここで失礼させて
    いただきます」

    そう言うと、古都子に視線を向けることなく、来た時同様さっそうと歩いて出ていった。
    古都子はホッとしたと同時に、強烈な寂しさを感じた。

    総司はまるで古都子のことなど忘れ、本当に初対面かのように振舞った。
    仕事相手として対面しているわけで、それは当然のことなのだが、あまりにも突き放された気がして
    悲しさがこみ上げてくる。

    あんなに激しく愛し合ったはずなのに・・・。

    弁解もせずに逃げてしまった自分が悪いのだ。しかし、あの時は一刻も早くあの場から逃げることしか
    頭になかった。

    総司はどう思っただろう。今日の表情からは全く何も読み取れなかった。



    「あの専務、なんかイヤな感じでしたね」

    中原が帰りのタクシーで悪態ついた。

    「イヤな感じ・・・でしたか?」
    「でしたよ!うちみたいな会社、海外出店なんて無理だって、はなから決め付けてるような口調だった
    じゃないですか」
    「・・・そんなことないわ。とても客観的に冷静に見て意見してくれてたと思うわ」

    古都子は少しムキになって返した。

    「古都子さん・・・まるで、あなたも海外出店は賛成しかねる、と思っているみたいに言いますね・・・」

    中原がじと・・・と古都子を凝視する。

    古都子は少しうろたえて視線を反らした。

    「そんなことないです。慎重にならなければいけないとは思っていますけど」

    中原はふーん・・・と疑うような様子でしばらく古都子を眺めていたが、何かを思い出したように慌てて
    携帯を取り出し、電話をかけ始めた。古都子の父にかけているのだった。

    「社長、今終わりました・・・はい、それがですね・・・」

    父への報告は古都子からするつもりだった。中原はよくこうやって古都子の仕事を横取りする。
    こと、社長に関してはしょっちゅうあることだった。

    古都子はため息をついて外の景色を眺めた。

    総司の姿を思い出す。プーケットでの総司とはまるで別人だった。

    (そうよね・・・これは’仕事’なんだから・・・)

    総司にとって、古都子は最早仕事相手の一人に過ぎない。
    古都子は自分自身に言い聞かせた。

    「・・・そうなんですよ。専務就任でパーティなんてねぇ・・・。はあ、わかりました。
    古都子さんと・・・。え?・・・はあ、そうですか。伝えておきます。はい」

    電話を切ると、中原はよりいっそういやらしい目つきになって古都子を見た。

    「・・・社長は何て?」
    「へへ・・・。パーティには’目立つ’ような格好で行け、と行っていましたよ」
    「目立つ・・・?それは私のこと?」
    「そりゃあそうですよ。男が着飾るわけにはいきませんから」

    中原はニヤニヤと笑いながら、楽しげに言った。
    父の思惑はわかる。感触があまりよくなかったことを受けて、どんな方法であれ、総司の気を引けと
    いっているのだ。

    しかし、古都子にしてみたら、それは逆効果としか思えなかった。
    そうすればするほど、総司は自分を見損ない、離れていく・・・。

    古都子は葛藤していた。総司への想いと、父に認められたいという気持ちが交錯する。

    (目立つって・・・。何着てけばいいのよ・・・)

    夕方5時を過ぎていた。会社には戻らず直帰することにした。
    自宅に帰ると、母親からお金を渡された。これで服を買えと言われる。
    父が母に頼んだのだろう。

    女の武器を使え・・・。そう言われているような気がした。お前には正攻法で挑むのは無理だと思って
    いるのだろうか。

    古都子は半ばヤケになってそのお金を受け取り、服を買いに外へ飛び出したのだった。



    「これはこれは・・・!とても綺麗ですよ。古都子さん」

    パーティー当日。中原は古都子を見ると目を丸くして驚き、全身をねっとりと眺めた。

    古都子はジロ・・・と中原を睨んだ。
    自分から率先して着飾ったわけではない。褒められても全く嬉しくなかった。

    結局、散々悩んだ挙句、薄いピンクのショートドレスにした。
    大人っぽいドレスを着てくる女性が多いだろうと思ったし、白に近いピンク色は艶やかなカラーの
    ドレスより目立ってみえるのではないかと思ったからだ。

    ベアトップのドレスは古都子の綺麗な鎖骨が見える。腰に大きなバラのコサージュがつき、フリルが
    何層にも重なってできたふんわりとしたスカートからは細い足がスラリと伸びている。
    可愛らしさと大人の女性の色気が混在し、一目を引く。

    髪はドレスに合わせて軽く巻いてもらい、サイドで束ねた。
    パールのイアリングとネックレスは祖母から譲り受けた年代ものだが、輝きは失わず、古都子を
    よりいっそう華やかにした。

    古都子は落ち着かずに視線を彷徨わせた。
    どうしても総司の姿を探してしまう。
    しかし、あまりの人の多さに見つけることが出来ない。

    会場は日比谷のホテルだった。大きな広間にテーブルがところどころに置かれ、立食形式のパーティだった。

    先ほどから中原とばかり話している。せっかくだから仕事の繋がりを持てそうな人を探して話がしたいのだが、中原が古都子にべったりとくっつき、自由に動くことができなかった。

    司会者が開演の挨拶を始める。まばらな拍手が起こる。
    古都子はぼんやりと周りを見渡した。これだけ大勢の人の中で、どうしたって目立つはずはないだろう。
    総司がわざわざ古都子を探して会いにくるとも思えない。

    肩を落として、小さくため息をついた時だった。

    「・・・それでは、一之瀬商事株式会社専務取締役、一之瀬総司様。どうぞ宜しくお願い致します」

    大きな拍手にハッとする。
    正面の壇上に設置されたマイクの前に総司が立っていた。

    黒いフォーマルスーツに身を包んだ総司は、堂々としていて、それはまるでどこかの国の王のように
    凛々しかった。
    天下を取るに相応しい、生まれ持った素質が垣間見れる。

    古都子はこのパーティの趣旨をやっと理解した気がした。
    総司こそが一之瀬商事の跡を継ぐものだということを、披露するための場なのだ。

    おそらくこの中で総司には無理だと思う者は一人もいないだろう。

    「本日は皆様、ご多忙中にもかかわらず、お集まりいただきましてありがとうございます。ただいま
    ご紹介にあずかりました一之瀬総司です。この度、専務取締役の大役をおおせつかることになりました」

    再び大きな拍手が起こる。拍手が静まるまで、総司は次の言葉を待った。

    「歳若く、不安を覚える方もいらっしゃるかと思いますが、今日にいたるまで現場を把握するため各国を
    行き来し、私なりに経験を積んでまいりました。

    その経験をもとに、当社の発展のお役に立てればと思っております。力の限りを尽くす所存でございますので、
    どうぞ皆様、お力添えのほど宜しくお願い致します」

    きっちりと頭を下げる総司に向かって、今日一番の大きな拍手が巻き起こる。
    古都子はボー・・・っと総司を見つめた。見とれたという方が正確だろう。

    総司の精悍な表情に誰もが魅了されるであろう。自信が漲り、確固たる決意を持っていることが伺える。

    その後行われたおエライ方々からの祝いの言葉は古都子の耳には全く入らなかった。
    壇上の総司に目は釘付けになり、動くこともできなかった。

    総司と自分の距離を感じた。総司はずっと’遠くにいる人’なのだと痛感する。

    総司に見つけて欲しいと着飾った自分がみじめになる。この場で誰よりも輝いているのは総司だった。



    一通りの挨拶が終わると、総司は壇上を降り、今度は各人に挨拶にまわっているようだった。

    「あーあ、これだけ人が多けりゃ、僕らのところに来ることはないでしょうね。食べるだけ食べて、
    さっさと帰りましょう」

    中原は皿一杯に食べ物を乗せ、がつがつと頬張りながら言った。

    (さっさと帰る・・・。そうね、その方がいいんだわ・・・)

    もし仮に総司に声をかけられても、わずかな時間で総司の気を引けるとも思えない。
    父の目論見は失敗したのである。

    「私・・・ちょっと外で休んできます」

    そう言って外へ出た。買ったばかりのハイヒールが合わず、足がズキズキと痛む。
    人ごみから出て、古都子は少しホッとした。

    会場から少し離れ、廊下にある豪華なソファに腰掛けた。
    まだ始まったばかりだというのに、とても疲れていることに気が付く。
    自分は何のために今日ここに来たのだろうと思えてならなかった。

    「お嬢さん・・・顔色が悪いね」

    声をかけられてハッとした。
    目の前に一人の老婆が立っている。背が低く、腰がまがっているが、眼光だけは鋭かった。
    黒い安物のワンピースを着て、黄色いカーディガンを羽織っている。
    とてもこのパーティに参加している者には見えなかった。

    よいしょと言って古都子の隣に座った。
    手に持っていた風呂敷を開く。弁当箱だった。

    「あんたも食べるかね」
    「え・・・?」
    「まともなもん食べておらんのじゃろう。そんな血色の悪い顔しおって。最近の若いもんはまず食事が
    なっとらん」
    「は、はあ・・・」

    老婆はそう言うと弁当の蓋におかずをいくつかのせて、割り箸と一緒にそれを古都子に渡した。

    「ありがとうございます・・・」

    古都子は面くらいながらもそれを受け取った。

    「このしいたけの佃煮。これは’ヤバイ’から食べてみなさい」
    「や、やばい・・・・?」
    「とてもいいことを’ヤバイ’とか言うじゃろう。最近の子供たちは」

    とにかく食えと促され、古都子は言われるがままにしいたけの佃煮を一口食べてみた。
    しいたけと昆布としょうゆの凝縮した旨みが口の中に広がる。

    「おいしい・・・!」

    古都子は感嘆の声を上げた。
    老婆は当然といった風に頷き、次から次に古都子の’皿’におかずをのせた。

    「とってもおいしいものばかりだわ。特にこのしいたけの佃煮・・・レシピを教えてくださいな」
    「フン。これは門外不出じゃ。息子の嫁と孫の嫁にしか教えんことになっておる」
    「代々伝わるものなんですのね。素敵」

    素敵という言葉に老婆はまんざらでもないような、照れたような表情をした。


    「・・・特に孫はこれが大好きでの。あたしに会いにきた時は必ずこれを食べたがる」
    「とっても仲の良いご家族なんですね。お孫さんはおいくつなんですか?」
    「今、そこでナントカ就任祝いとやらを受けておるわ」

    老婆の言葉に古都子はドキリとした。

    「ナントカ・・・就任祝い・・・?」
    「あたしはこういったところの食事は嫌いじゃ」
    「あの、あなたのお孫さんて・・・もしかして、一之瀬総司さんなんですか・・・?」
    「もしかしなくてもそうじゃ」
    「・・・・!」

    古都子は心底驚いた。この老婆が総司の祖母だとは。似ても似つかないし、セレブとは程遠い格好で、
    靴もボロボロだった。

    「フン。無駄な金を使いおって。何が就任パーテーじゃ。そんな暇あったら仕事をせい」
    古都子には信じられなかった。そもそも総司の祖母がなぜこんなところで弁当を食べているのだ。

    「あの・・・お、お祖母さま、会場へ入ったほうがよろしいのでは・・・」
    「だーから、言ったじゃろう。こういうところの食事が嫌いだと。本当は家にいたいところを無理やり
    連れてこられて・・・。仕方ないから手弁当持参しとるんじゃ」

    総司の祖母は本当に嫌そうな顔をしたが、それでもこうして来ているのは孫の晴れ姿を見たいからだろうと
    古都子は察した。

    自然と笑みがこぼれる。

    「うん?・・・うんうん、やはりお前さん、似とるな」

    総司の祖母は身を乗り出して古都子の顔を覗き込んだ。

    「??似てるというのは、どなたに??」
    「あたしじゃ。あたしの若い頃にそーっくりじゃ」

    総司の祖母はそういうとケラケラと笑って弁当箱の蓋を古都子から奪って閉じると、ふろしきで包み始めた。
    古都子は呆気にとられてしばらく何も言えなかったが、この年老いた老婆も、かつては若く美しかった時代が
    あって当然なのだ。古都子はニッコリ笑って丁寧に弁当のお礼をした。

    「うんうん、お前さんは最近の若いものにしては礼儀もなってるし、箸の使い方も綺麗で、なかなか良い
    女子さんじゃ」

    そう言って立ち上がると、会場とは別の方向へ歩き始めた。
    古都子は慌ててその背中に声をかけた。

    「お祖母さま・・・!この度は総司さんの専務取締役就任、おめでとうございます」
    「めでたいかどうかわからんよ。あの子は昔は、あんな風にギスギスしとらんかったし、’カッコつけ’
    でもなかった。もっと素直でいい子だったんだから・・・」

    そう言うとひらひらと手を振って去っていった。

    古都子は総司の祖母の背中が見えなくなるまで見送った。
    会場から大きな拍手が起こる。
    古都子は急いで会場に戻った。誰かの挨拶が終わったところらしかった。

    一応中原を探してみるが、見当たらなかった。見当たらない方がいいと思い、それ以上は探さなかった。

    喉の乾きを覚え、ドリンクが置いてあるテーブルまで行こうとしたときだった。

    「大貫さん」

    声をかけられて横を向く。
    総司だった。

    古都子は突然のことに驚き、何も言えず、動けないでいた。

    「何か・・・お飲みになられますか?」

    フォーマルスーツ姿の総司は、近くで見るといっそう艶やかだった。
    黒い瞳の奥が光り輝き、古都子をじっと見つめる。
    プーケットで出会った時と同じ瞳だった。

    古都子は視線をそらし、うつむいた。

    「ええ・・・いただきます」

    総司は近くのウェイターを呼ぶと、シャンパンを二つ手に取り、古都子に渡した。

    古都子は慌てて祝いの挨拶をした。

    「この度は、専務取締役就任、おめでとうございます」

    深々と頭を下げる。

    「ありがとうございます。では、乾杯」

    そう言ってかるくグラスをあげ、シャンパンに口をつける。
    少し上がった顎から首への美しいラインをぼーっと見つめる。

    総司がグラスから唇を離す。見つめていたのを悟られないように、古都子もグラスに口をつけた。
    喉が乾いていたせいで、ゴクゴクとシャンパンを飲んだ。全て飲み干してしまいそうだったが、一気に
    飲むのが憚れて、少し残してやめた。

    見ると、総司がじっと古都子を見つめていた。
    ドキリとするほど熱い眼差しだった。

    こんなに大勢の人がいる中、いつまでも二人で無言で見つめ合っているわけにはいかない。
    古都子は次に何と話しかけたらいいのか、頭をフル回転させて話題を探す。

    「あの・・・一之瀬専務・・・」
    「終わったらホテルの外で待ってて。君を・・・送らせてほしいんだ」

    総司が声をひそめて、古都子にだけ聞こえるように言った。

    ドクン・・・・!

    もうとっくに激しくなっている鼓動が更に早まる。総司の瞳の奥がわずかに燃え上がる。古都子は息を
    呑んで総司をただただ見つめることしかできなかった。

    「古都子さん、こんなところに・・・あ!一之瀬専務・・・!」

    中原がタイミング悪く駆け寄ってくる。総司を見て満面の笑みを浮かべる。

    「この度は、専務取締役就任、おめでとうございます」
    「ありがとうございます」
    「古都子さん。専務に話しかけるなら僕も呼んでくださいよ」

    中原が古都子の腕にそっと触れて言った。背筋に悪寒が走る。

    「ごめんなさ・・・」
    「私の方から声をかけたんですよ。あまりにも・・・綺麗だったものですから」

    総司は照れもせず、揺るぎの無い口調で言った。
    古都子も中原も驚き、一瞬黙り込む。

    古都子は耳まで赤くしてうつむいた。中原は頬を引きつらせて無理やり笑顔を作った。
    総司が近にいた年配の男性たちに声をかけられる。乾杯をしようと誘われている。

    「大貫さん、’先ほどの件’、宜しくお願いします。では私はこれで」

    そう言って二人に背を向けて、男性たちの輪の中に入っていった。

    「古都子さん・・・’先ほどの件’って、なんのことです?」

    中原がじと〜っと古都子を上目遣いで見る。
    古都子はギクリとして視線を反らした。

    「仕事の話です。資料を・・・見やすく作る方法をアドバイスされただけです」
    「資料を?ふーん・・・。まあ、この前やたらと褒めてましたもんね。そんなに良かったかどうか、
    僕にはわかりませんでしたけど」

    古都子はそっと総司を盗み見した。

    『終わったら会場の外で待ってて』

    確かに総司はそう言った。
    仕事とは別の誘いなのだということはわかっていた。

    どうしようという気持ちと、総司が声をかけてくれたという喜びが入り混じる。

    それからはまったく上の空で時を過ごした。
    中原は専務に挨拶もしたし、さっさと帰るといって帰ってしまった。
    パーティーは閉会の挨拶が終わっても、皆すぐに帰ることなく談笑を続けている。
    誰しもが夢中で話をしている。いつまでたっても終わりそうになかった。

    古都子は少しの間面識のある同じ業界の社長と話をしていたが、そろそろ外へ出ようと思い、コートと
    ストールを受け取って着るとホテルの外に出た。

    外へ出ると、とても大きなハマーの白いリムジンが止まっていた。
    古都子はそれを避けて少し離れた場所に移動しようとした。

    「大貫さま。一之瀬専務がお待ちです」

    運転手に声をかけられて古都子は驚いて目を丸くした。

    「え・・・?」

    運転手がリムジンのドアを開けて古都子に乗るように促す。
    乗り込むと革張りのシートに総司が座っていた。

    メタリックな豪華な内装で、15、6人は乗れると思われる広さだった。更にミニバーがついていて、
    あらゆる酒瓶が並んでいた。

    「すごい・・・」

    古都子はリムジンの中をぐるりと見渡して呟いた。

    「大げさでしょう?こんなこと、しなくていいのに」

    総司はそう言うとワインを新しいグラスに注いだ。

    「どうぞ座ってください」
    「はい・・・。失礼します」

    古都子は恐縮しながら総司から少し離れて座った。コートを脱ぎ、ストールを羽織った。
    途端に二人きりになったことを強烈に意識した。

    「家は?」
    「えっ?」
    「送りますから、行き先を教えてください」
    「あ・・・はい。よ、代々木上原です。でも、遠いので・・・」
    「遠ければ遠いほどいいですよ」

    総司は意味ありげにそういうと、インターフォンを手に取り、運転手に行き先を告げた。総司はスーツの
    上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめシャツのボタンをいくつか外すと、ふーっと息を吐いた。

    総司が今日の主役だ。疲れて当然だろう。しかし、こんなに主役が早く抜けてきていいものなのだろうか。
    パーティー自体は終わったものの、完全にお開きになっていない。

    「あの・・・主役の専務がいなくなって大丈夫なのでしょうか?もし私を気遣ってのことでしたら・・・」
    「私がいようといまいと、あの人たちには関係ありませんよ。ただ飲み、ただ話をしたいだけなんです。
    私が抜けたことに気が付く人は一人としていません」
    「はあ・・・」

    ワイングラスを手にしたものの、飲む気になれず、落ち着かない気持ちでグラスの中で揺れる赤い液体を
    見つめていた。

    総司は自分のグラスの中のワインがなくなると、今度は別のグラスにウィスキーをグラスに注いだ。

    「ウィスキー、飲みますか?」
    「いいえ、ウィスキーは苦手で・・・」
    「熟成期間が長いものは美味しいんですよ。冷やしたら少し飲みやすくなりますから」

    そう言うと、氷を足してマドラーでかき混ぜた。

    その様子を見ていた古都子をチラ・・・と見ると、そのマドラーを古都子の前に差し出した。

    「少し・・・舐めてみて」

    ドキリとした。差し出されたマドラーから、ウィスキーが雫になって落ちそうになるのを見て、慌てて口を
    開く。

    舌にウィスキーの甘みと苦みがほんのりと広がる。

    「飲めそう?」

    総司は古都子の口からマドラーを離すと、今度はそれを自分の口の中に入れた。
    舌の上に乗せて、マドラーの先端の丸い部分を転がすように舐める。

    ゴクリ・・・

    まるで’別の何か’を舐めているようなしぐさに古都子の体が反応する。
    色気のある総司の姿に、かあ・・・と耳まで赤くした。

    (な、何を考えてるの・・・!)

    古都子はうつむいて首を横に振った。

    「飲めません・・・」

    総司がどうしたいのか、意図がわからなかった。今は仕事相手であり、以前のように振舞うわけにはいかない。
    たとえ心は総司を強く欲していたとしてもだ。

    「・・・足」

    総司がグラスをテーブルに置いて言った。

    「痛むんでしょう?靴、脱いで」

    突然言われて古都子は戸惑った。何故わかったのだろうか。

    「いえ、大丈夫です」

    古都子ははっきりそう言って、更に総司から離れようとした。
    総司がおもむろに古都子の右足首を掴んで持ち上げた。

    「!」

    古都子の足を膝の上に乗せて、ハイヒールを脱がせる。
    古都子の指の関節が赤くなっている。

    「一之瀬専務・・・!」

    古都子は足を引っ張ってもがいたが、総司は古都子の足を離さなかった。

    総司は温かいタオルでそっと足を包んだ。
    冷えた足先にじんわりと熱が伝わる。

    「・・・・」

    古都子はおとなしくその心地よさを受け入れた。
    しばらくの間、二人とも黙り込んだ。

    総司の体から香ってくる、甘くセクシーな香りにクラクラする。

    「君がオークの社員だったとはね」

    ドキリとした。ハッとして顔を上げる。総司の瞳が鋭く光る。

    ドクン・・・ドクン・・・ドクン・・・

    「君は俺が一之瀬商事の人間だと知っていた」

    総司は古都子を見据え、足を掴んでいる手に力を入れた。

    「し・・・知らなかったんです・・・本当に・・・!」

    やはり総司は自分を疑っているのだ。古都子は泣きそうになるのを必死に堪えて言った。

    「本当に?そんな偶然があるとでも?」
    「本当に知らなくて・・・。名前も違うし・・・」
    「間宮は母方の姓だ。仕事以外では間宮を名乗ってる。けど、そんなことは調べたらすぐわかる」
    「・・・・」

    本当に知らなかったと言えば言うほど、知っていたと言っているように聞こえて、古都子は黙り込んだ。


    「では・・・知っていたら?俺に近づかなかった?」

    総司がずい・・・と身を乗り出し、古都子に近づく。

    間近に総司の瞳が迫り、古都子の心臓をぎゅう・・・と鷲掴みした。

    (知っていたら・・・?)

    たとえ知っていたとしても、たとえ別の出会い方をしていても、総司に惹かれないでいた自信などなかった。
    古都子が強烈に総司に引き寄せられたのは、家でも会社でもなく、総司自身だったのだから。

    古都子の思いつめた瞳を、総司は食い入るように見つめた。古都子の心の中を全て見透かしたいというように。

    「・・・目が覚めて、君がいないことに気が付いた時」

    総司の鼻先が古都子の鼻先に触れる。

    「俺がどんな気持ちになったか、わかる?」

    総司の瞳は怒りや悲しみ、そして古都子への愛しさで溢れていた。
    唇があとわずか動けば触れ合うというところまで近づく。

    「ご・・・めんなさい・・・」

    古都子が小さく、震える声で謝る。
    総司が古都子の羽織っていたストールをス・・・と引く。スルリと肩からストールが落ちる。

    キスしたい・・・!

    二人の気持ちが一致していることが痛いほどわかる。


    「・・・この仕事から手を引く気は?」

    総司が囁くように言った。
    二人の間に流れる時間がピタリと止まった。

    総司は古都子と一緒に仕事をしたくないと思っているのだった。
    仕事相手と’そういう関係’でいたら支障がある。

    君が手を引いてくれると言えば、この続きを・・・。

    車が止まった。代々木上原に到着したようだった。

    「ありません」

    古都子はきっぱりと答えた。古都子との関係を考えて仕事を選ぶなんて、総司らしくないと違和感を覚えた。
    古都子は総司から体を離し、真っ直ぐ見つめて言った。

    「どうか私のことは関係なく、契約を決めてください。だめなものはだめで構いません。その場合は
    私がいるからという理由ではなく、会社として展望がないという理由をはっきりさせてください」

    総司がふ・・・と笑う。

    「もちろんそうしますよ」
    「送ってくださってありがとうございました。失礼いたします」

    古都子はハイヒールを履くと、振り返ることなく車を降りた。

    小走りになる。心臓がまだドキドキしていた。
    総司の香りが自分に移った気がする。

    総司の声、瞳、たくましい体・・・。
    何度も頭の中で繰り返される総司とのセックス・・・。

    古都子はそれら全てを忘れたい一心で目を瞑った。

    (仕事・・・仕事・・・仕事・・・・!)

    総司にも仕事のパートナーとして認められたい。
    一緒に仕事ができる人物だと実力を認めてもらいたい。

    女性としてではなく・・・。



    休みの間、古都子は総司に指示された資料の用意に追われた。
    特に期限が迫っていたわけではないが、自分で自分を追い込んだ。

    一之瀬商事についても、あらかじめ調べておいたこと以上に詳しく調べ上げた。
    特に、これまで手がけてきた中小企業の海外展開の仲介についても徹底的に調べた。
    そうやって仕事に集中しようと努力したのである。

    「これは・・・?」

    月曜日に出社すると、古都子の机の上に紙袋が置いてあった。

    「古都子さんに荷物みたいですよ」

    誰よりも早く出社する隣の女性社員が教えてくれた。

    (荷物・・・?会社に送ってくるなんて、誰かしら・・・)

    「あ・・・!」

    古都子のストールだった。
    あの日、リムジンの中に忘れていったのだった。今になってそれに気が付く。

    袋の中にはピエールマルコリーニのチョコレートの箱が一緒に入っていた。
    チョコレートの箱にカードが貼り付けられてある。

    『S・М』

    (総司・・・間宮・・・)

    総司の心遣いに、胸がジン・・・と熱くなる。総司が謝っているような気がした。

    古都子は唇を噛んだ。
    自分は総司の優しさを、頭から拒否してしまったのではないか・・・。

    足を痛めていたことに気が付き、手当てしてくれた。
    何も言わずに逃げるように総司のもとを去った非礼を強く責めることもしなかった。

    「わー!マルコリーニじゃないですか〜!いいなぁ」

    女性社員がうらやましそうな声を上げた。

    「おいしいですよね。でも、あんまり食べたことないですけど。これぐらいの大きさだと1万円ぐらい
    するんじゃないですかね」
    「そんなにするの・・・」

    古都子は驚いてチョコレートの箱を見つめた。ちょっとしたプレゼントにしては高すぎる。

    女性社員は食べたそうな顔でじーっと見つめている。
    少しぐらい御裾分けしようかと思ったが、総司からのプレゼントを他の誰かにあげたくなかった。

    「あの・・・母がチョコレートが大好きだから、このまま持って帰るわ」

    女性社員はそうですか・・・と言うと、残念そうな顔をして仕事に戻った。

    総司にしては、大したプレゼントではないのだろうが、古都子はこのままもらいっぱなしなのは気が引けて
    ならなかった。

    (何か・・・お返しをした方がいいのではないかしら・・・)

    特別な意味はない。高価なものを戴いたから、お返しするだけだ。総司がしてきたように社名を明かして
    送るわけでもない。仕事とは関係のないただの御礼なのだ。

    そう自分に言い聞かせながら、古都子は何をプレゼントしようかとウキウキしていることに気が付く。

    (チョコレートのように、気軽にプレゼントできるもの・・・)
    (あまり重すぎないで・・・)
    (どうせなら普段から使えるものが・・・)

    仕事中にも頭であれこれ考えてしまう。

    仕事を急いで終わらせて、最寄の百貨店へと向かう。
    まずは男性のハンカチ売り場に行ってみる。古都子は更にここでも悩んだ。

    (好みとかあるわよね・・・どうしよう・・・)



    古都子は悩んだ末、シンプルな黒と紺色のハンカチを選んだ。使うか使わないかまで気にしていてはキリが
    無い。お返しすることが大事なのだと言い聞かせて無理やり決めた。

    プレゼントの包装をしてもらい、カードも付けてもらう。

    『K・О』

    イニシャルだけ書いた。なんだか二人にしかわからない秘密の暗号みたいで、くすぐったい気持ちになる。

    総司の会社に総司宛に送った。大きな会社だし、もしかしたら怪しまれて届かないかもしれない。
    それならそれで仕方がないだろう。

    まるで少女の頃に戻ったような気分だった。

    次回の話し合いは三週間後だ。指示された資料はもうほぼ完成している。
    前回の様子からして、次回の話し合いではまだ全ては決定されないだろう。
    最終的な判断が下されるのにはまだ時間がかかると考えたほうがいい。

    契約を結ぶことになれば、総司は仕事のパートナーになる。
    もしダメだったら・・・。

    古都子は余計なことを考えてはいけない、と頭を振った。
    前回の話し合い以来、父は毎日古都子の作成した資料を神経を尖らせてチェックした。
    説明の仕方も何度も練習させた。

    (この仕事を成功させれば・・・)

    古都子の中には淡い期待があった。父はきっと良くやったと言ってくれるに違いない。そのときに初めて
    悟ではなく、自分を見てくれるはずだ。

    まずは成功させる。総司のことはそれから考えよう。それまでに総司の古都子への興味が無くなることだって
    あるだろう。そう考えると胸が痛むが、古都子には今総司を選ぶことはできなかった。

    3日後・・・。

    今度はぬいぐるみが届いた。小さな、机の上に置いておけるサイズの薄いピンクのウサギだ。
    手触りが良く、耳が前にヘタ・・・と垂れている様が何とも可愛らしかった。

    古都子はクスリと笑った。総司はこのぬいぐるみを自分で買いに行ったのだろうか。
    お店でこのウサギを見つめて買おうか買うまいか思い悩んでいる姿を想像して、思わずニヤける。

    「ほー・・・。今度はぬいぐるみですか・・・」

    隣の席の女性社員が興味津々な様子でぬいぐるみを見る。男性ですか?と目が尋ねている。
    古都子は焦って適当な言い訳を考える。

    「遠方にいる祖母と・・・プレゼント交換始めたの。この前はハンカチをあげたのだけど、
    次は何がいいと思う?」
    「お祖母さまですか・・・。じゃあ、同じようにぬいぐるみでいいのでは??」

    言われて、思わず吹き出しそうになる。

    ぬいぐるみを総司に送る・・・。

    受け取った時、いったいどんな顔をするだろう。

    「そうね。それはいい案だわ。とびきり可愛いぬいぐるみを送ることにする」

    古都子はウサギのつぶらな瞳を見つめた。
    総司からもらったと考えるだけで、ずっと愛しく感じる。

    そうして二人の秘密のプレゼント交換が始まったのである。



    その間も仕事の話は進んでいく。
    二回目の話し合いの席に、総司は出席しなかった。

    「申し訳ございません。一之瀬は本日別件で海外へ行っております」

    営業部長は自分が代わりに話をすると言って座った。

    中原は少し不機嫌になったが、古都子は少しホッとしていた。
    資料をつき合わせて、話し合いが始まる。

    ある程度、古都子たちの話を理解してもらった時点で、営業部長が口を開いた。

    「一之瀬が前回申しておりましたように、オークさんがメインとしているものだけでは押しが弱いと
    考えております。ここは、もう一つ、強く押せるようなものを打ち出してみませんか」

    古都子と中原は同時にお互いの視線を合わせた。
    低年齢層のカジュアル部門だけでない得意分野を作れ、と言っているのだ。

    「それは・・・新しい’売り’になるものを出せということでしょうか?」

    古都子が確認のために尋ねる。

    「そうです」
    「お言葉ですが、弊社は今の状態でじゅうぶん自信を持って海外展開できると考えております。
    今から新しいものを出すなんて・・・」

    中原が少しムキになって言った。

    営業部長はそうですね、と頷き、一つの大きなファイルを二人の前に置いた。



    「実は今、オークさんと同じ路線で香港での展開を目論んでいる企業があり、既に開店の準備にかかって
    います。ここで同じものを提供したところで、’真新しさ’は無くなるでしょう。今ある良いものは
    そのままで構いませんが、プラスα、人々の興味を引くものが必要です」

    同じ路線の会社が進出しているという話を初めて聞いた二人は文字通り面食らった。
    頭の中であらゆる考えが浮かぶが、言葉に出てこない。

    中原が慌てて口を開いた。

    「し、しかし、新しいものを打ち出したところで、日本で出して、成功を見てからとなると香港への
    展開に時間が・・・」
    「かかるでしょうね」
    「では、香港以外で・・・」
    「今回香港を外したところで、いずれは香港へ展開していくことになるなら、それは同じことです」

    中原は青ざめた。これは遠まわしに’今はやめておけ’と断られているに他ならない。

    「それは・・・一之瀬専務のお考えでしょうか」

    古都子は思い切って尋ねた。

    「そうです。ただ、一之瀬は、ものによっては日本での展開をせずとも香港の店舗で最初に打ち出すことも
    考えております」

    つまりは、『今は海外展開をやめる』か、『’売れそうなもの’の案を考えられるなら、引き続き海外展開の
    交渉を続ける』ということだ。

    新しい’売り’を考え出し、香港で試す・・・。

    簡単なことではなかった。そう言われても何も頭に浮かばない。

    「これは私たちが用意した香港におけるアパレル企業の顧客調査の結果です。これらを参考にして、次回まで
    新しい案を打ち出してみてください」

    それが上手く行かなければ、それまで・・・。

    「わかりました。’そちらの方向’で進めてみます」

    中原は売られた喧嘩を買うといったように、強い口調でそう言うと、ファイルをカバンにしまいこんだ。


    会社に戻るタクシーの中、中原は必死になってそのファイルを読んでいた。

    古都子は内心諦めかけていた。今の’売り’である低年齢層向けのファッションの案は悟が考え出したものだ。
    そのおかげで全国展開できた。悟のモノを見る目は確かだったし、流行や売れるポイントを見極める力が
    抜群だった。


    「やれるものならやってみろって態度・・・。僕はハラワタが煮えくり返りましたよ。うちを完全に
    なめてますよ。企画の奴ら焚きつけて、何が何でもやってみせます!」

    中原は闘志を燃やしていた。

    新しいものを生み出す・・・。果たしてそれが悟のいない今のオークにできるのだろうかと古都子は表情を
    暗くした。

    会社に戻り、二人で社長に報告に行く。

    父は黙って中原の報告を聞き、終わってからもしばらく口を開かなかった。
    古都子にはこのまま父が引き下がるとは思えなかった。おそらく、こんな時悟がいたらと思っているに
    違いない。

    「・・・古都子、お前がやれ」

    父の言葉に古都子は驚いて目を見開いた。

    「しゃ、社長・・・!古都子さんに任せるんですか・・・!?」
    「もちろん他の者にも参加させる。が、指揮はお前が取れ」

    父は古都子にこの大事な仕事を完全に任せるつもりらしかった。

    「社長、私には・・・」
    「お前がやれと言ったんだ。早く動け」

    父はこれ以上言うことは無いと、古都子をジロ・・・と睨んだ。

    社長室を出て、中原は古都子を上目遣いで睨んだ。

    「じゃあ、僕、企画のやつらに説明してきますんで・・・」
    「はい・・・。宜しくお願いします」

    去り際に中原が「結局、同族経営かよ・・・」と呟いたのが聞こえた。

    古都子の心がズシリと重たくなる。
    既に完成されて確実なものを売り込むのと、売れるものを企画するのとではわけが違う。
    古都子は席に戻ってため息をついた。
    ウサギのぬいぐるみをぼんやり眺める。

    その瞳は頑張れと応援しているようでもあり、もういいよと労わってくれているようでもあった。

    古都子が送ったクマのぬいぐるみを、総司はどうしただろうか・・・。
    さすがにオフィスには置いておけないだろう。

    ハンカチにカフスボタン、カラヤンのレコード、ワインも送った。

    総司からはシャガールの画集、マリアージュフレールの紅茶、それから何故か歯ブラシが送られてきた。
    歯ブラシは柄が動物になっているもので、キリンやワニ、ブタなどでかたどられていた。

    それら全てが古都子の宝物である。

    隣の女性社員が外出先から戻ってきて古都子に声をかけた。

    「古都子さん、今、外でこれを渡すように頼まれたんですけど・・・」

    女性社員は興味津々な目つきで古都子に小さい紙袋を渡した。
    袋の中を咄嗟にのぞくと、総司からのカードが見えた。

    「そう、ありがとう」

    古都子は慌てて袋を持ってオフィスの外へ出た。廊下のつきあたりまで到達すると、袋の中の箱を取り出した。黒い包装紙に金色のリボンで綺麗に包装されている。

    なんだかいつもと様子が違うことに胸がドキドキと高鳴る。
    人づてに手渡されることも今回が初めてだ。

    (これは・・・・!)

    箱の中にはブラックパールのイヤリングが綺麗なベルベットの生地の上にはめられていた。
    黒く、吸い込まれそうな総司の瞳のようだった。

    あまりの美しさに古都子はしばし見惚れたが、すぐに事態を把握して、慌てて携帯電話を取り出した。

    (こんな高価なもの貰えないわ・・・・!)

    どう軽く見積もっても、今までのプレゼントとは桁が違うことは古都子にもわかった。
    登録してある総司のビジネス用の携帯電話へ電話をかける。

    「はい。一之瀬です」

    総司はすぐに電話に出た。耳元で総司の声が聞こえドキリとする。
    オフィスから人が出入りするのを横目で見ながら、古都子は思わず声をひそめた。

    「もしもし、オークの大貫です・・・。あの、今・・・」
    「受け取ってくれましたか?」

    総司の少しからかうような口調に、古都子はしまった!と思った。

    総司はこうして古都子が慌てて電話をかけてくることを見越していたのだ。
    こんな高価なものは受け取れないと言わせることが’手’だったのだ。
    それに気が付いて、古都子は悔しい気持ちになる。しかし、その一方、こうして総司と電話で話ができる
    喜びも感じていた。

    「こんな高価なもの・・・いただけません」
    「そう高いものでもありませんよ。受け取ってください」
    「でも・・・・」

    古都子は手の中のブラックパールを見つめた。総司が古都子を見つめているような気分になる。

    「では・・・とても残念ですが、返しに来てくれますか?今から、私の家に」
    「え!?」

    古都子は思わず大きな声を上げた。

    総司の本当の狙いはそれだったのだ。

    「そう高いものではありませんが、手渡しの方が安心でしょう」
    「あの、それは・・・!」

    総司は戸惑う古都子をよそに、マンションの場所を説明するとすぐに電話を切ってしまった。

    (家にって・・・。どうしよう・・・・)

    まさかこんな展開になるとは思っていなかっただけに、古都子はうろたえて、頭を抱えた。

    確かに、手渡しの方が確実で安心ではある。そこも総司の計算のうちなのだ。
    ここは諦めて総司に直接返しに行くしかなさそうだ。

    古都子は荷物をまとめて会社を出ると、タクシーに乗り込んで総司のマンションへと向かった。



    次のページ
    こまちの官能小説一覧に戻る