月下の森


紗奈は大きな岩の上に倒れこんでいる男を見つけて立ち尽くした。
岩の表面は平らで、川面よりもわずかに高くなっている。そこに突っ伏すように力なく横たわっていた。
男の体はびしょ濡れで、足は清流に浸かったままである。

(生きてるの・・・・?)

生い茂る木々の間から差し込む夕日の光は弱く、紗奈の不安をいっそう強くさせる。
異国の血を4分の1引き継いだ、紗奈の愛らしい人形のような瞳が陰り、長い睫と一つにまとめた髪が
さらさらと風に揺れた。

水が流れる音に混ざって、低いうめき声が聞こえた気がした。

紗奈は川に入り、男に近づいた。膝上まで冷たい水の中に入ると、寒気が一気に全身に広がる。
紗奈の濃紺のコットンのワンピースと生成のエプロンが水面にふわりと浮いたかと思うと、
すぐに水を吸って沈んだ。

「あの・・・・大丈夫ですか!?」

紗奈は男の肩を掴んで揺らした。
男の首は力なく、紗奈が肩を揺らす動きに合わせてグラグラと揺れた。
やはり死んでいるのかもしれないと、うなじのあたりに冷たいものが走ったその時。

「う・・・・・」

男は顔をしかめて呻いた。

(生きてる!)

紗奈はもう一度、今度は強く肩をゆすった。

「あの・・・・!あの・・・・しっかりしてください!」

こういう時、名前も知らない相手になんと声をかけたらいいのかわからない。
紗奈は、あの、あの!と声をかけ続けた。

男がうっすらと目を開けた。
紗奈はすかさず顔を覗き込んだ。

「大丈夫ですか!?」

男の目は焦点が合わず、視線は空をうろうろと彷徨った。
紗奈は頬を少し強めに叩いた。

「起きてください!今・・・・あなたを助けます!」

紗奈は必死だった。本人を安心させたい気持ちで思わず口にしたが、大丈夫だと自分に言い聞かせるといったほうが正解かもしれない。

まずは・・・・そう、まずは自分の小屋に連れていこう。
いや、それとも助けを呼ぶべきなのか。

小屋の電話は使えなかった。先々週もう何度目になるかわからない、ねずみによって電話線をかじられるという被害にあってから不通だった。
携帯電話なども持っていない。
近くにもう一つあるログハウスの主は週末だけ訪れる中年の夫婦のもので、今日はその日ではなかった。

救急車を呼ぶなら自転車で10分かかる牧場まで行く必要がある。

紗奈は迷った。この山奥では救急車を呼んでいったいどれだけ時間がかかるのだろう。
牧場主に車を出してもらう方が賢明かと思われた。

男の目がまた閉じた。
紗奈はまずは小屋に連れていくことにした。

「起きて・・・・!」

紗奈は川の中にジャブジャブと入り、男の腕を自分の肩へと回す。
水の冷たさと男の体の冷たさにドキリとする。

紗奈は早くしないと、と焦るが、いかんせん男の体は重たく、腕をまわしたものの立ち上がれない。

「起きてください!せめて・・・・小屋に行かないと・・・・」

紗奈は男の頬をもう一度叩いた。今度は力を込めて。

はっ!とした用に男の目が開いた。
紗奈の顔を凝視したあと、目だけを動かして辺りを見回し、再び紗奈の顔に視線を戻した。

「君は・・・・」
「私の小屋がすぐそこにあります。歩けますか?」

紗奈の鬼気迫る様子に男は初めて自分の置かれている状況を把握したようだった。

「ああ・・・歩ける」

そう言って立ち上がろうとした途端、大きく呻いてしゃがみこんでしまった。

「ごめん・・・・足が・・・・」

男の顔が苦痛で歪む。
しかしすぐに再び立ち上がった。

「右足は・・・大丈夫」

男は独り言のようにそう言うと、右側に体を傾けてゆっくりと立ち上がった。
紗奈は右側に回り込んで男の体を支えた。

川辺は湿った落ち葉の絨毯になっていて、ずぶずぶと足を取られて歩きにくい。
男は左足を引きずるようにして、それでもなるべく紗奈によりかかるまいと全身に力を入れて歩いているようだった。

「大丈夫です。私、こう見えて力ありますから」

紗奈は男に遠慮しないように言ったが、男は力なく笑うだけだった。
紗奈は身長も低いし、腕はか細く、体も薄い。男にしてみたら頼りなく感じたに違いない。

小屋は川の側面を登りきった場所にある。
ずぶ濡れになった服がよりいっそう男の体を重たくしていた。

ずる・・・ずる・・・・

日がもうすぐで落ちる。辺りは薄暗くなってきていた。
坂道はどうしても紗奈に体重をかけて登らなくては無理な様子だった。

男の歩みがだんだん遅くなる。

「あともう少しです。もう少し」

紗奈は自分もはあはあと息を荒げながら男を励ました。

いつもはささっと小屋から坂を駆け下りて、清流に水を汲みにくる道が、ひどく長く感じる。

ようやく小屋にたどりついた時にはすっかり日は落ちて、辺りは真っ暗だった。

紗奈はベッドとしても使っているソファに男を横たわらせた。
バスタオルを数枚男に渡し、コンロで湯を沸かす。

秋が始まったばかりで、ストーブはまだ出していなかった。
奥の部屋からストーブを運び、毛布を棚から出して男に言った。

「体を良く拭いて・・・あの、着替えがないので・・・・。
でも、濡れた服は脱いだ方がいいと思います。毛布を体に巻いてください」

言いながら恥ずかしさがこみ上げてきたが、それどころではないと無理やりねじ伏せた。
この住み慣れた山小屋に、見知らぬ男性を招きいれ、しかも服を脱げと言うなど、
普段の生活からは考えられない状況だった。

紗奈は急いでストーブに火を点けると、男が服を脱いでいる間奥の部屋に身を隠した。

(足を怪我してるんだった・・・一人で脱げるかしら・・・)

手伝ったほうがいいのか。いや、さすがにそこまでは・・・・。

紗奈は物置として使っている小さな部屋を落ち着きなくうろうろと歩きまわった。
そういえば自分も濡れているではないか。
目の前の壁にかけてあった水色の縦縞が入ったリネンのワンピースに着替える。
男の着替えのことを頭から離すために、次に何をするかに集中することにする。

やはり救急車を呼びに行こう。足を怪我しているし、川で溺れたと思われるから、ちゃんと病院で手当てを受けなければ。

男が終わったよ、と声をかけた。

紗奈はもう一枚毛布を持って物置部屋を出た。
毛布を巻きつけた男の上に、さらに毛布をかける。

体が冷えているはずだから、何かあたたかいものを。とはいえ、選択肢は紅茶しかないのだが。

紅茶を用意して、ソファの前に跪く。

男はじっと紗奈を見ていた。

「寒いですか?」
「・・・・少し」

紗奈はこれを飲んでください、と言ってソファの近くにおいてある小さな丸いテーブルの上に置いた。

「救急車を呼んできます。ごめんなさい、この家の電話は今使えないのです。

一番近くの牧場まで行ってきますから、お名前と歳を教えてください」

紗奈は上着を着て自転車の鍵を手に持った。

「救急車?」

男が怪訝な表情で言った。まるで思ってもいなかったことを提案されたかのようだった。

「ええ。だって、足を怪我しているし、溺れたんですよね?」

男は少し何か考えたあと、首を横に振った。

「いえ・・・。大丈夫。崖から落ちたけど、幸い川に入る手前で止まって・・・。溺れたわけじゃないんだ。
救急車は必要ない。ここで少し休ませてもらったら帰るから」

男は言葉こそ丁寧だったが、強い拒絶を含んだ声で言った。

「でも・・・・」

(帰るって・・・どこに、どうやって?)v
紗奈はドアノブを握る手を緩めた。

「この川の上流に家があって。友人の家だけど、近くを散歩している時に・・・足を滑らせて落ちてしまったんだ」
「ではそのお宅へ行って助けを呼びます。場所を教えてください」
「いや、それはだめだ。とにかく、自分で帰るから、もう少しだけ休ませてほしい。足の痛みも引いてきたからもうじき歩けると思う」

男があまりにもきっぱりと拒絶するので、紗奈は途方に暮れた。

(本当に大丈夫なのだろうか・・・・)

男は紅茶を手にとり、一口すすると、小さくため息をついた。

紗奈は男が脱いだ服を持って外へでた。
この小屋には洗濯機はない。小屋の出入り口にある水道で手洗いで洗濯するのだ。
紗奈は手馴れた手つきで洗濯板を使って洗った。
せめてシャツだけでも急いで乾かして着せた方がいいと思った。

下着はなかった。さすがに履いたままなのだろうと赤面する。

上質な紺色のシャツは、ほとんど黒に見えた。胸元にはYという文字が刺繍されていた。

(イニシャルかな・・・・)

ふと見ると、流れていく水が赤い気がした。薄暗くてすぐに気づかなかったが。
ほのかに血の香りもする。

なんで思いつかなかったのだろう。
崖から落ちたのなら、傷があって当たり前だ。
紗奈はやはり病院へ行ったほうがいいと思いなおした。

小屋に入って再び提案しようと口を開いた時だった。

「君は画家なんだね」

先に声をかけられてしまった。
小屋の中は大小様々な大きさのカンバスでいっぱいだった。
書きかけのもの、完成したもの、真っ白なもの。
大量の絵の具に大量の筆、ナイフ、イーゼル、パレット・・・・。

アトリエにしか見えない部屋だった。

「・・・・これ、ルーベンスだよね」

男は一番手前にある絵を指差して言った。

紗奈は小さく頷いた。
br> 「複製画なんです」

紗奈は複製画を描いて、それを売って生活をしていた。
偽者を本物と偽って売っているのではなく、本物に手が届かず複製画を求める人たちを対象に売っているのである。
写真を用意してもらえば、肖像画も描く。

「すごい・・・本物かと思った」

男は目をキラキラさせて感嘆の声を上げた。

ここでようやく、紗奈は男の顔をじっくりと見ることができた。

黒い瞳は凛としていて、紗奈が描いたルーベンスの絵をじっと見つめていた。
綺麗な鼻梁の下には・・・まるでファーブルの描いたアベルのような幼さを残す青年の引き締まった唇があった。

艶やかな黒い髪は濡れて更に深みを増し、耳を半分隠していた。
童話の中の王子様みたいだ・・・と紗奈はその横顔に心を奪われた。

「本当にすごい。ルノアールもフェルメールも・・・・あ、オフィーリア。俺、この絵好きなんだよな」

男は壁にかけてあったジョン・エヴァレット・ミレーの『オフィーリア』を見て言った。
生と死の狭間にいる美しいオフィーリアが今まさに川の中に沈み込もうとしている様を描いたミレーの傑作だ。

「・・・どうしたらこんな風に描けるの?」

そこでようやく男は紗奈に視線を戻した。
潤んだ黒い瞳が自分に向いたので、紗奈の胸が高鳴る。

「な、なんとなく・・・・」
「なんとなく?なんとなくで描けるんだ?」

男はクスクスと笑った。
その笑顔が少年のように愛らしく、紗奈の鼓動は更に早まった。

「その・・・わかるんです。それぞれの画家の描き方というか・・・タッチというか」
「へえ・・・・。色を再現するのも大変じゃない?」

紗奈は頷いた。

「難しいです。でも、そういう色彩の判断も・・・・なんていうか、得意みたいです」

紗奈は遠慮がちに言ったのだが、自慢に聞こえただろうか。
男は小さく優しく笑った。

「俺は全然絵心ないから、尊敬するな。君が好きな絵はどれ?」
「私は・・・・水が描かれているものが好きです。『オフィーリア』もですし、『デルフトの眺望』とか、『睡蓮』も」

紗奈は部屋に置かれている絵を指差しながら言った。

「ここに一人で住んでるの?」

男は手に持っていたマグカップをテーブルの上に静かに置いた。
喉がかわいていたのか、ほとんど残っていなかった。
「はい」
「怖くない?」
「もう慣れました」
「君は・・・・すごいね」

ポタ、ポタと何かが床に落ちる音がして、自分が濡れたシャツを手にしていることを思い出した。

急いでストーブの近くにそれを干す。

「どこか怪我していますよね?見せてください」

紗奈は薬箱を取りに行った。こんなもので間に合う傷ならいいのだけれど。

「大丈夫。たいしたことない」

男は腕だけひょいと毛布から出してひじを見せた。
紗奈は近づいて傷を見た。広範囲にすりむいているが、深くはない。
それでもちゃんと消毒したほうがいい。
紗奈は脱脂綿に消毒用のアルコールを含ませると、男の手を取った。

(え・・・・?)

紗奈は男の手が異様に熱いことに驚いた。
手の平を強く握る。

(なんて熱いの・・・・!)

慌てて男の額にも手を添えてみる。
やはり熱い。瞳が潤んで見えるのは熱のせいだったのだ。

「すごい熱・・・やっぱり病院に・・・・」

紗奈はそうつぶやくと、うろたえて立ち上がろうとしたが、男は紗奈の手を掴んで離さなかった。

「行かないで」

強く手を引かれ、紗奈はもう一度座り込んだ。

「でも」
「君の手、冷たくて気持ちよかった。もう一度ここにあててほしい」

そう言って自分の額を指差した。
紗奈は躊躇したが、言われるがままに額に手を置いた。

違う・・・こんなことをしている場合ではないのだ。
せめて、タオルを氷水で・・・いや、病院に・・・・。

濡れた黒い瞳で見つめられ、手首に感じる男の手の熱さが、紗奈の判断を鈍らせる。

紗奈は魔法でもかかったかのように、動けないでいた。
男が掴んでいた紗奈の手を持ち上げて、自分の頬へと導こうとしたその時。

ドンドンドンドン!!

激しくドアを叩く音が響いた。

二人は同時にビクッ!と体を強張らせた。

「佑哉!佑哉、いるんでしょう!?」

それは若い女性の声だった。

紗奈は急いでドアを開けた。

そこには黒く長いウェーブがかった髪を乱して、泣きそうな顔をした少女が立っていた。
少女から女性になろうとしている、おそらく二十歳になる前頃の。

その背後には複数の男性が見えた。

小動物のような愛らしい大きな瞳は、紗奈をみると、みるみる怒りの炎を燃え上がらせ、するどく睨み付けた。

「誰?佑哉はどこ?」

それはまさに殺気だった。

紗奈に掴みかかるようにして小屋の中に入ってきた。
紗奈は後ずさりし、よろめいた。

少女はあたりをぐるりと見回し、男の姿を捕らえる。

「佑哉!」

少女は佑哉という男に駆け寄り、その体を抱きしめた。

「良かった!」
「瑠花・・・・」

瑠花という女性はすぐに佑哉の熱に気がついたようだった。

「ひどい熱・・・・!それに・・・足は!?」

瑠花は強引に毛布をめくり、佑哉の左足を確認した。

「い・・・・!」

佑哉は顔を歪めて呻いた。

瑠花は大きな声で外にいる人間を呼んだ。

「急いで佑哉を車まで運んで!」

男たちは三人がかりで佑哉の体を持ち上げた。

「待て、大丈夫だから・・・・」

佑哉は力なく抵抗したが、男たちに抗う力は残ってないようだった。
体が持ち上がった拍子に毛布がめくれ、佑哉の背中が見えた。
同時にぼとりと何かが落ちた。
血に染まった白いTシャツだった。

(え・・・?)

背中には深く大きな傷が見え、毛布には血がべっとりとついていた。

紗奈は驚愕の表情で口を押さえた。

瑠花も傷に気がつき、小さな悲鳴をあげる。

「なんてこと・・・・!」

瑠花の悲痛な想いは紗奈に怒りとして向けられた。

「なんですぐに病院へ連れていかなかったのよ!」

怒りで歪んだ美しい顔で、紗奈を殺さんばかりに睨み付けた。

「わ・・・わ、私・・・・」

紗奈の足がガクガクと震える。

「あの人に何かあったら、あなたを同じ目に合わせてやる」

紗奈はそれ以上立っていられず、崩れるようにその場に跪いた。
瑠花はそんな紗奈を冷たく見下した表情で見つめると、走ってその場を去った。

車のエンジンの音が聞こえ、すぐに遠くに消えていった。
佑哉のシャツからポタポタと落ちる雫の音だけが部屋に残った。




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