オフィスラブ【涼子 番外編T(羽柴ver)】


  • 羽柴友恵は目の前を行ったり来たりする鳩を眺めながらため息をついた。

    いつも三上涼子と一緒に公園でランチをする。涼子がお茶を買いに行って戻ってくるのを待っているのだ。

    綺麗に手入れされた髪はゆるく巻かれ、友恵の大きな胸にかかる。
    白い肌が眩しく輝き、厚めの唇と鎖骨のホクロ、女性らしい柔らかな体のラインは同姓が見ても色気が
    あると思わせる。

    「はー、コンビ二超混んでた!ごめん、先食べてくれてて良かったのに」

    涼子が小走りに友恵の座ってるベンチに戻ってきた。

    「んー・・・、なんか食欲なくて」

    再び友恵がため息をついた。

    「羽柴、どうしたの?疲れてる?」

    涼子が少し心配そうに友恵の顔を覗き込んだ。普段、ため息をつく友恵をあまり見ることがないからか、
    意外そうにしている。
    友恵は涼子の顔をじっと見つめた。

    「・・・三上さぁ・・・。湯山のどこが好き?」

    友恵が突如質問する。涼子は予想外の質問に顔を赤くした。

    「何を突然・・・」
    「湯山って、確かに良い男だけど、結婚したいと思うかどうかって言われると何か違う気がするし・・・。
    結婚してうまくやってけると思う?」

    先ほど涼子から、湯山が涼子の両親に結婚の挨拶に実家に来たという話を聞いて、友恵はずっと
    考えていたのだった。

    二人が付き合い始めて、一緒に暮らし始めた時は心の底からおめでとうと言えた。
    しかし結婚となると別だった。なぜかおめでとうという気持ちよりも、どうして結婚したいと
    思えるのだろうという思いが強くなり、祝福する気持ち半分、不思議な気持ち半分といった妙な
    気持ちになるのだ。

    涼子はうーん・・・としばらく考えてから口を開いた。

    「湯山って、冷たいとこもあるけど、心の中にはすごい熱いもの持ってると思うんだよね・・・。
    仕事のこととか・・・それ以外でも自分にすごく厳しいし、妥協しないし・・・。

    そういうとこ、好きっていうか、尊敬できるっていうか・・・。多分湯山は結婚してもそのスタンスは
    変わらないと思うから、うまくやっていけるかどうかは私次第だとは思うけど・・・」

    涼子は少し照れながら答えた。
    どうやら二人はずっと深いところで繋がっているようだ。

    (尊敬ねえ・・・)


    湯山は友恵と涼子の同期の男性社員で、クールな性格に綺麗な顔、背が高く、めがねをかけ、頭も良い。
    社内で一番人気のある男性だ。
    涼子と付き合い始めて、最初は涼子ばかりが好きな状態で心配していたが、今ではお互い思いやれる
    良い関係になっているようだった。

    涼子が湯山の昔の女に刺されたとき、病院にかけつけた湯山の狼狽ぶりを見て、友恵は湯山が本気で
    涼子のことを好きなのだということを感じた。

    友恵は長い間、同じ会社の川田という男性と不倫関係にあった。

    最初の頃は妻子を捨てて自分と一緒になってほしいと思っていたし、離婚するという川田の言葉を
    信じて待っていた時期もあった。

    しかし妻との関係が破綻し、自分の心も体も愛してくれていても、川田には「家庭」を放棄する
    つもりがないとわかった時、友恵の中で川田への情熱が急速に冷めていった。

    それでも川田のことは好きだったし、お互いの体を知り尽くしたセックスも友恵にとって簡単に
    手放せるものではなかった。

    結婚を現実的に考えられないのは長い不倫のせいかもしれないと友恵は思った。
    男は必ず浮気をする。そういった方程式が体に組み込まれている気がする。
    夫婦の関係が破綻した家庭に何の意味があるのか・・・。そう思えてならないのだった。

    「湯山が浮気したらどうする?」

    何気なく質問して、なんて自分らしくない質問だろうと友恵は思った。
    それは涼子も同じだったようで、驚いた顔をして友恵を見つめている。
    それでも何とか答えようと、再びうーん・・・と考え始めた。

    「そこは私も心配してるとこなんだけど・・・。もちろんしてほしくないけど、したとしても、
    そっちの女に本気になって捨てられなかったらいいかな。こんなこと言うの恥ずかしいけど、
    湯山を失うほうがずっと怖いから・・・許すと思う」

    涼子が凛とした表情で答える。

    友恵は驚いた。この手の質問をされた女の子は大抵『自分の彼氏は浮気などしない』と答える。
    そんな風に答える女の子を、友恵は内心馬鹿にしていた。

    しかし、涼子は湯山を失うのが怖いと言った。

    (私は・・・)

    川田を失っても怖いという感情が沸いてこない。
    昔ならそう思っていただろう。この人がいなければ生きていけないとさえ思っていた。

    友恵の心に大きな穴がぽっかり開いたような気がした。
    いつも心の隅で、そろそろ終わらせる時だという気持ちがあった。
    それでも踏ん切りがつかないでずるずると続けてきた。

    その感情が徐々に大きくなる。

    (本当に、そろそろなのかも・・・)



    君島直紀に再会したのはそんな時だった。



    友恵は涼子や湯山と同じく、営業職に就いている。
    近々大きなプロジェクトが立ち上がる予定で、要員確保のためいろいろな企業に掛け合っていた。
    今日は既に参加が決まっている企業との打ち合わせの日だった。

    来客が来たとの連絡があり、友恵の三つ上の先輩女子社員と来客室へ向かった。
    椅子に座っていた年配の男性と、歳若い男性が二人座っていた。
    友恵達が入ると、三人同時に立ち上がる。

    「お待たせいたしました」

    先輩社員が頭を下げるのに合わせて、友恵も軽く会釈する。
    いつも二人なのに、今日は1人多いなと思って顔を上げた時だった。

    (・・・・・あれ?)

    一番末席の男性の顔に見覚えがある。
    友恵はじっと凝視した。男性の方は特に友恵に注目している様子もなく、みんなの会話に耳を傾けている。

    (そんなはず・・・。でも・・・似てる・・・)

    年配の男性が口を開いた。

    「前回お伝えしましたが、担当が替わることになりました。君島くん、ご挨拶しなさい」
    友恵はハッとした。

    (君島・・・!!やっぱり・・・)

    目の前にいるのは、友恵の高校時代の同級生の君島直紀だった。
    直紀は軽く頭を下げて名刺を差し出した。

    「これからお世話になります、君島と申します。宜しくお願い致します」

    恐れ入ります、頂戴いたします、と言って先輩社員が名刺交換をする。
    友恵も慌てて名刺を取り出した。

    直紀は何ともないような顔で名刺を差し出す。
    友恵に気がついてないのかもしれないのだろうかと思いながら名刺を交換した。
    そこにははっきりと君島直紀システム営業部営業1課と書いてある。



    君島直紀・・・。
    そこには友恵の記憶にある直紀の要素は少しも無かった。

    友恵の知っている直紀は、制服も上履きもルーズに身につけ、校則など完全に無視した茶髪にピアス。
    いつもだるそうな表情をして猫背で廊下を歩くといった男子生徒だった。

    可愛らしい顔立ちで、笑うと可愛いく人気はあったが、派手な見かけの割には社交的というほどでもなく、
    仲の良い友達は限られていた。

    それが・・・。今目の前にいる直紀といえば、きっちりとスーツを着こなし、当然髪の毛は黒く、
    ピアスもしていない。凛とした表情は仕事をきっちりとこなす大人の男の表情だ。しかも営業となれば、
    社交性も必要である。

    あまりにも違いすぎて、友恵は混乱した。同姓同名の別人なのだと何度も思ったほどだ。
    打ち合わせの半分も頭に入っていなかった。

    打ち合わせが終わり、エレベーターホールまで見送りに行く。
    結局直紀は友恵に何か話かけることもなく去っていった。

    「新しい子・・・君島くんだっけ?可愛いかったわね」

    先輩社員がむふふと笑って言った。

    「はあ・・・」
    「仕事楽しくなりそ〜♪」

    そう言ってさっさと別のエレベーターで下がっていった。
    友恵はため息をついて来客室へ戻る。用意されていたコービーのカップを下げなくてはいけない。

    片付けていると、直紀が座っていた椅子の上に何かあることに気がついた。

    「・・・あれ?」

    定期入れだった。友恵は慌てて来客室を出て、エレベーターで下に下りた。
    先ほどの三人は玄関ホールを出ようとしているところだった。

    「君島さん!」

    友恵が声を上げると、直紀がすぐさま振り返った。
    友恵は定期入れを掲げて言った。

    「定期券、忘れてます!」

    直紀は他の二人に何か声をかけて、友恵の方に駆け寄った。

    「すみません。助かりました」
    「すぐに気がついて良かったです」

    友恵から定期入れを受け取ると、直紀が小さな声で言った。

    「羽柴、久しぶり」

    友恵はハッとして直紀を見上げた。

    「・・・やっぱり!君島くんだよね!?」

    友恵も声のトーンを落として尋ねる。

    「今日、この後もう一つ客先行ったら終わりなんだ。羽柴は?忙しくなかったら、飲みに行こうよ」

    直紀が柔らかい表情で言った。

    突然の誘いに友恵は驚いたが、視界の端に直紀を待っている二人の姿が見え、急いで答えた。

    「うん、大丈夫」
    「じゃあ、仕事終わったら電話して。さっきの名刺に携帯番号書いてあるから」

    直紀はそう言うと、深々と頭を下げて去っていった。
    他の二人が友恵に向かって頭を下げる。
    友恵も返すように頭を下げた。

    顔を上げて、直紀の後姿を見つめる。

    (やっぱり、君島くんだった・・・)

    あまりの変貌振りに友恵は戸惑った。
    あんなに優しい表情で誘うような男ではなかったはずだ。



    それから帰宅時間になるまで、友恵は落ち着かない様子で過ごした。

    ブー・ブー

    携帯にメールが届く。

    『今日家に行くよ』

    川田からのメールだった。
    同じフロアの、少し離れた場所に座る川田と目が合った。

    友恵はすぐに返事を送った。

    『ごめん、今日友達と約束がある。またね。』

    自分でも素っ気無い返事だと思ったが、川田に対する感情がいつになく冷めていることを感じ、
    思いやりのある言葉を選ぶことができなかった。

    川田が自分のことを誘うときは、セックスしたい時。それ以上でもそれ以下でもないのだ。
    川田は仏頂面で携帯を見ている。
    少し可哀想かなと思うが、直紀の誘いを断って川田と会うという選択肢は無かった。

    定時になると、急いで帰る支度を始める。
    仕事を振られる前に帰らなくてはと焦りながら、こんな風に誰かに会うために急いで帰るなんて
    しばらくなかったなと思った。

    トイレで化粧を直して会社を出た。
    直紀の名刺を取り出す。

    時間はもう7時になろうとしている。かなり待たせてしまっているかもしれない。
    電話をかける。こんなに胸がドキドキするのも久しぶりだ。

    「はい、君島です」
    「・・・もしもし、羽柴です」
    「お疲れさま。仕事、終わった?」
    「うん。今会社出た。・・・どこにいるの?」

    恵比寿にいるのだと言う。友恵はすぐに行くと言って電話を切った。
    電話越しに聞こえた直紀の声が耳に残る。

    何故自分はこんなにも胸を高鳴らせているのか・・・。
    昔はチャラチャラしていた少年が、立派な男になって現れたことに舞い上がっているだけなのか・・・。

    高校時代、友恵は直紀が話す数少ない女子生徒の1人だった。
    何人かのグループで話すこともあれば、二人で夕暮れの教室で話が盛り上がることもあった。

    若かったあの頃の空気が思い出される。

    言葉にしなくても、なんとなくお互いがお互いを’嫌いじゃない’ということが伝わるあの雰囲気。
    直紀と友恵の間には、そういった微妙な空気が流れていた。

    とはいっても、それは穏やかな海を想わせる緩やかな波で、告白をして彼氏彼女の関係になろうと
    踏み込ませるほどには大きくなかった。

    なんとなく・・・という気持ちを持ったまま、二人の関係は特に進展することもなく卒業した。
    そのささやかな気持ちは時が経つにつれ、更に薄れた。

    もう二度と会うこともないだろうと思っていたのに・・・。


    友恵は直紀が待つ店に急いだ。


    恵比寿の高層ビルの39階にある店に入る。

    直紀は窓を向いて並んだ二人がけのテーブルについて外を眺めていた。
    正面に東京の夜景が広がり、暗い海に無数の光が瞬いているのをのぞいているかのようだった。

    店に入った途端に、この景色にみな圧倒されるのだろう。
    友恵と一緒に入ってきた女性客が声をあげて感激している。

    「お待たせ」

    友恵は直紀に声をかけながら椅子に座った。

    「急がせた?ごめん」
    「ううん、大丈夫。夜景、すごく綺麗ね」
    「だろ?見入っちゃうよな」

    二人でしばらく夜景を見つめる。
    店員が友恵に飲み物は何にするか尋ねてきた。
    直紀がビールを飲んでいたので、同じものを頼んだ。

    「それにしても驚いたなぁ。羽柴と仕事することになるなんて」
    「それは私の台詞だよ!すっかり変っちゃってるし、私に気がついた素振りも見せないから、別人かと思った」

    直紀がハハハと笑う。昔の可愛らしい笑顔のままだ。

    「俺は羽柴の名前も歳も聞いてたから、打ち合わせ行く前から、もしかして・・・って思ってた。
    だから心の準備できてたけど、羽柴、驚いてたな」
    「驚くよ!だって、高校の時と全然違うんだもん。本当に驚いた」

    直紀が微笑みながらじっと友恵を見つめた。
    直紀の男の色気を帯びた眼差しは初めて見る。友恵はドキドキしているのを悟られないようビールのグラスに
    口つけた。

    「羽柴は・・・綺麗になったな」

    直紀の言葉に友恵は思わず動きを止めた。

    (こんなこと・・・言う人だったっけ・・・)

    恥ずかしさと嬉しさで胸がいっぱいになる。照れ隠しに思わず冗談めかして言った。

    「営業の人に言われたって、心に響かないわね」
    「ひでーなぁ。本当だよ。女は変るな。やっぱり」

    料理が運ばれる。二人で肩を並べて、夜景を見ながら酒を飲む。
    高校時代ではまずなかったであろうシチュエーションに、お互いが大人になったとしみじみと感じた。

    高校の同級生が今はどうしているかという話から、地元の話、会社に入るまでの話、好きな酒の話・・・。
    話題は尽きなかった。

    二人とも実家は東京の下町にあるのだが、家を出て1人暮らしをしていた。
    友恵は東急線沿線、直紀は京急線沿線に住んでいる。
    同じ東京都内でも、実家に帰ることはほとんどないのはお互いさまだった。

    酒がすすむにつれ、友恵の緊張も徐々にほぐれていった。
    ずっと気になっていたことを聞いてみることにした。

    「君島くんが’変身’したキッカケって、何かあるの?」

    直紀は夜景を見つめて言った。

    「・・・よくある話だよ。女にフラれて、見返してやる!ってやつ」
    「本当に?君島くんて、そんなタイプだったっけ・・・」

    友恵は素直に思ったことを口にした。
    直紀が小さく笑う。

    「俺もそんなタイプだと思ってなかったんだよなぁ」



    直紀は高校卒業してから、アルバイトをしたりしなかったりでダラダラした生活を送っていたのだという。

    友人の紹介で出会った年上の女の子と付き合い始め、すぐに同棲を始める。
    彼女は既に働いており、ほとんど彼女に食べさせてもらっていたようなものだったようだ。

    「ある日さ、本当に突然言われたんだ。あなたみたいな人と一緒にいたら、いつまでたっても夢が
    実現できない。ちっとも前に進めないって」

    直紀から笑顔が消えていた。その時のことを思い出しているのだろう。
    友恵は黙って聞いていた。

    「その子、カバンのデザイナーになりたくって、ずっと勉強してたんだ。
    食わせてもらってたくせに、自分が足枷になってるなんて少しも感じてなかったんだよな。
    ガキだったんだ。必死に働いて何になるんだってまわりの人間を馬鹿にしてたし、そのくせ自分に
    何も無いことに絶望もせずのらりくらり生きてたんだ」
    「・・・彼女に言われて、目が覚めたんだ」
    「そう。まさにその通り。ショックだったなぁ。それまですごい俺に尽くしてくれてたのに、
    いきなりすごい剣幕でさ。『出て行って!』だもんな」

    直紀は笑って言ったが、それはどこかさびしそうで、未だにショックが残っているのだろうと思わせた。

    友恵は妙な気分になった。
    直紀をこんなにも変えさせた女性・・・。

    それが自分ではないことに、もどかしさや悲しさを感じる。
    その女性に・・・嫉妬しているのだ。

    「なんか・・・すごいね。人の人生を変えちゃうほど、その子に魅力があったんだろうな」

    友恵がポツリと言った。
    直紀は、んー・・・と少し首を傾げた。

    「というよりも、俺のなけなしの、わずかに残ってた男のプライドが『このままじゃだめだ、
    しっかりしろ』って声を上げたんだよな。今ならわかるよ。あんな男と毎日一緒にいたら、
    イライラして仕方なかったと思う」

    ハハっと直紀は無邪気に笑った。

    再会して間もないというのに、友恵はすっかり直紀の笑顔に虜になっていた。
    直紀が笑う度に、胸がきゅぅと締め付けられる。

    (どうかしてる・・・。コドモじゃあるまいし・・・)

    自分の知らない直紀と同棲し、直紀のことを変えたその女性に嫉妬していた。
    妻子持ちの男と恋に落ち、男女の酸いも甘いも知っているはずの自分が、今更少女のような気持ちに
    なることが友恵を驚かせた。

    「でも、すごいよね。それでちゃんと会社入って、バリバリ働いてるんだもん」
    「頑張ったぜー。すぐに大学受験目指して勉強し始めたけど、英語とか中学の英語からやり直したしさ。
    就職活動もかなりやったよなぁ・・・。特にやりたいことなかったから、とにかくまずは自立だと思って
    今の会社入ったけど、仕事楽しいしやりがい感じてるから今はまずまず満足してる」

    直紀が変ったと感じるのは、たくさん努力して内面もそうとう強靭になったからに違いなかった。

    (私は・・・どうだろう・・・)

    友恵は自分がそんなにも何かに向かって熱くなったことがあっただろうかと思い返してみた。
    今の仕事が楽しくてやりがいがあるかと言われると答えに詰まる。

    直紀がうらやましかった。
    夜景を見つめながら自問自答している友恵の横顔を見て、直紀が尋ねた。

    「羽柴は・・・彼氏いるの?」

    ドキリとした。何て答えるべきか迷う。
    川田とのことを口にしたくない。咄嗟にそう思った。

    「彼氏・・・は、いない・・・」

    直紀は、友恵の様子を見て何かを悟ったようで、そう・・・と言ったきりそれ以上詮索することはなかった。

    川田には妻子がいる。胸を張って彼氏と呼べる相手ではなかった。
    それでも何年も愛し合い、ある意味では支え合ってきた相手について語ることを『恥ずかしい』と思った。

    (だめだ・・・こんな風に思うなんて・・・。やっぱり、終わらせる時なんだ・・・)

    友恵は少なからずショックを受けていた。

    川田とのことを恥だと思ったことなどなかった。お互いがお互いを必要としていたから一緒にいたのだ。
    今までの二人の積み重なった時間が、ガラガラと音を立てて崩れていく気がした。


    二人は終電の時間が近づくと、ようやく店を出た。

    「久しぶりに会えて良かったよ。楽しかった。これからよろしく。あ、仕事だけじゃなくて」
    「うん。また飲みに行こう。高校のときのみんなと集まってもいいね」
    「そうだな。また連絡するよ」

    本当は二人きりで会いたいのだ。そう思っていても、お互い口にはしない。
    あの時と同じ、もどかしい空気が流れる。
    それでもこうして再会して、再び連絡が取れるようになっただけでも友恵は嬉しかった。

    そうして二人は駅で別れた。

    友恵は決心していた。

    川田と別れよう。これ以上、続けていても意味がない。
    次に会ったときに話た方がいいという気持ちもあったが、時間が経つと気持ちがブレそうな気がした。

    家についてすぐに電話をする。おそらく家に帰っているはずだ。
    二人の間で、川田が家にいる時には電話をしないということが暗黙の了解になっていた。
    それでも構わずにかける。川田は電話に出なかった。

    友恵は少し考えた後、メールを送った。

    『ずっと考えてたけど、あなたとの関係を終わらせることにする。今までありがとう。』

    短いメールだったが、だらだらと長いメールを送ったところで何になるというのだろう。別れたい。
    それだけが伝わればいいと思った。余計な優しさを見せたほうが未練が残る。

    すると、すぐに電話がかかってきた。川田だった。

    「・・・おい。別れるって、嘘だろ?何か怒ってんのか?」

    家の外に出て話しているようだった。車が通り過ぎる音が聞こえる。

    「嘘じゃないし、怒ってもいない。本気よ」
    「やめてくれよ。いつまでたっても離婚しないこと、怒ってるんだろ?もう少し待ってくれ。娘が・・・」
    「違うの。もういいの。あなたに対して愛情がなくなった。はっきりわかったの」
    「・・・男ができたのか」

    友恵は心の中で大きなため息をついた。

    「そんなんじゃないわ。でも、もしそうだとしても、あなたにとやかく言う権利はないわよね」
    「ずいぶん酷いこと言うじゃないか。これだけ長いこと一緒にいて、よくそんなことが言えるな」

    川田の声が怒りで震えている。それでも友恵は怯まなかった。

    「・・・じゃあ、この先あなたと一緒にいて、いつまでもこの状態で私に歳をとれって言うの?
    離婚なんかする気、最初からなかったくせに。あなたこそ酷いことしてるわ」

    沈黙が流れる。

    「本気なんだな?」
    「本気よ」
    「後悔するぞ」
    「そんなものするくらいなら別れようなんて言わないわ」

    川田が再び黙り始めた。友恵はもう一度自分の気持ちを確かめてから言った。

    「さよなら」



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