オフィスラブ【結 partT】


  • 「結さあ、どうなの?子供」

    会社の飲み会の席で同期の女子社員に尋ねられ、桜井結はドキリとした。

    「どうって別に・・・。まだいいかなーって」
    「ふーん・・・。でももううちらも30歳になるしさ、そんなに悠長なこと言ってらんないよね。
    って、結婚の予定すらない私が言うなって感じ?ハハハ〜」

    女子社員は一人笑って、トイレ行ってこよーと言って席を立った。

    結はため息をついた。

    ショートの茶色の髪はふんわりとパーマがかかり、大きな目は背があまり高くない結を余計に幼く見せる。
    普段は元気で職場でもムードメーカーの結だが、この質問をされると途端に表情を曇らせる。

    (子供もなにも・・・することしてないし・・・)

    結は父親の紹介で知り合った桜井佑一と結婚していた。今年で3年目になる。
    佑一とは1年以上セックスしていない。寝室は一緒だったが、ベッドは別々、手をつなぐことも久しくない。

    最近、特に多い『子供は?』の質問に、結はうんざりしていた。
    夫婦にはそれぞれの形がある。子供を生まないのがそんなに不自然なのだろうか・・・。
    ほっといてほしい、と思いながらも子供が欲しい気持ちを否定できないでいた。

    「桜井、隣いいか?」

    結はハッとして声の聞こえた方に視線を移した。
    一つ上の会社の先輩の高科純也だった。

    「はい、どうぞ」

    結は咄嗟にそう答えて、同期の女性社員が戻ってきたらどうしようと心配したが、彼女は既に
    別の席で飲み始めていた。

    純也はグラスを持ってよいしょと言って結の隣に座った。

    純也は先週から始まったプロジェクトで初めて一緒に働くことになり、それまではほとんど話を
    したことのない先輩だった。

    純也も既に結婚していた。優しい顔つきで、話も面白い純也は既婚者でも女子社員に人気があった。

    お洒落で、スーツや靴、時計などに気を使っているのが伺える。
    あまりお洒落をしない男性社員が多い中で、純也は目立つ存在だった。

    正直言うと、結は純也が苦手だった。

    『女性にもてる男』が好きではなかった。『お洒落な男』も嫌いだった。

    それでも仕事を一緒にし始めて、純也が見た目よりずっと真面目で、仕事に対しても真摯に
    取り組んでいる姿を見て、純也に対する印象が変わり始めていた。

    「お疲れ」
    「お疲れさまです」

    カチンとグラスを合わせる。

    思わずグラスを持った純也の左手の薬指に目がいく。
    ゴールドの指輪だった。

    「高科さん・・・結婚してるんですよね」
    「あぁ、うん。今年で3年目」
    「3年目?じゃあ、私と一緒だ」

    高科も結の左手の薬指に視線を移す。

    「そうなんだな。・・・ま、結婚してても特別いいことないけどね。俺の場合は」

    そう言って笑った。

    (いいことない・・・?)


    どういう意味かわかりかねて、結は少し踏み込んだ質問をした。

    「・・・奥様って、どんな方なんですか?働いてるんですか?」
    「働いてるよ。もう、働きまくってるねぇ。親の敵のように」

    聞けば、純也の妻は結婚してすぐに若い女性向けの下着メーカーの会社を立ち上げ、社長として激務を
    こなしているのだという。

    「完全にすれ違いの生活。一緒に飯食う時間もない。寝室も別々だしね」

    寝室も別、という言葉に結はドキリとした。
    察するに、純也もセックスレスのようだ。

    「桜井の旦那は?会社員?」
    「公務員です」
    「そうかー・・・。毎日晩御飯作ってんの?」

    純也の質問に結は表情を曇らせた。
    確かに結は毎日晩御飯を作っていた。しかし、佑一がそれを食べてくれたことはほとんどなかった。

    「はい・・・そうです。一応・・・」
    「大変だよなぁ。働きながら旦那の世話もしてさ」
    「大変てほどでもないですよ。何もしてないですもん、私」
    「飯作ってくれるだけで充分だよ。俺なんか結婚してからも結局自炊してるもんな」

    そう言ってため息をついた。いつも笑顔の純也がこんな風にため息をつく姿を見て、本当にそう思って
    いることが感じられた。

    (なんだか・・・うちと似てるな・・・)

    結は急に親近感が湧いてくるのを感じた。

    「でも、高科さんなら奥さんの他にもご飯作ってくれる女の子ぐらい、沢山いるでしょ?」

    結が冗談で言うと、純也は少し目を開いて心外だなあと言った。

    「僕はね、こう見えて不器用な男なんですよ。沢山いるなんてことありまセン」
    「じゃあ、ちょっとならいるんですね」
    「ちょっとならね・・・って、だからいないっつの」

    二人で笑う。結はかなり純也に心を開き始めていた。

    「・・・桜井って可愛いよなー」

    突然の純也の言葉にドキっとした。誰か聞いてたらどうするつもりだとまわりを見回すが、
    皆自分達の話に夢中で、結たちの会話など聞こえていそうにもなかった。

    純也を見ると優しい眼差しで結を見つめている。まつ毛が長く、少し伏せた目が色っぽかった。

    「えーと・・・酔っ払ってますよね?」
    「酔っ払ってるけど、本気で言ってる」
    「・・・はあ。ありがとうございます・・・」

    結は適当に流すように、気の無い返事をした。

    「本気だって」

    純也の目は真剣だった。
    結はドギマギして何て返したらいいのか、言葉を探した。
    戸惑っている結を見て、純也は微笑んだ。

    「・・・よし、決まり!」

    純也が何やら嬉しそうに言った。


    「決まりって、何がです?」
    「桜井、浴衣持ってる?」

    質問に対して質問で返され、結は混乱した。

    「??・・・持ってますけど・・・」
    「じゃあ、今度の土曜日の花火大会、一緒に行こう。浴衣着てきてね」

    結は面食らった。デートの誘いだった。

    「花火大会って・・・。えぇ!?本気ですか??」
    「だから本気だって言ってるだろ?冗談で人妻をデートに誘ったりしまセン」

    結は純也が何を考えて自分をデートに誘うのか理解できなかった。

    (デート・・・?)

    結は断るべきだと思いながらも、どこかこの会話が冗談の延長に思えて、どう返したらいいのかわからず
    うろたえた。

    純也がクスリと笑う。

    「別に深く考える必要ないよ。友達と花火行くのと一緒だろ。俺だってたまには女の子と花火見に
    行ったりしたいんだ。桜井みたいな可愛い子だったら尚更幸せだなーと思って」

    深く考えるなと言われ、確かにそうだと結は思った。
    深い意味などないのだ。ただ単に純也は花火大会に誰かと行きたいのだろう。
    妻はおそらくそんな暇はないだろうし、何かのきまぐれで結を誘っているだけなのだ。

    「だめ?」

    それまで自信満々な様子で話していた純也が、急に自信無さそうに聞く姿が妙に可愛いらしく、
    結は思わず微笑んだ。
    佑一の顔が頭に浮かぶが、どうせ土日は家にいないのだと掻き消した。

    去年は花火を一度も見に行かなかったし、浴衣も長いこと着ていない。
    単純に男性からデートに誘われたことが嬉しかった。

    「いいですけど・・・私でいいんですか?」

    結の返事に純也の表情が途端に明るくなる。

    「もちろん!よっしゃー!いいって言ったからな!約束だぞ!」

    無邪気にはしゃぐ姿を見て、結は再び微笑んだ。

    「私、結婚してますよ?断ると思わなかったんですか?」
    「思わないね。俺は勝てない勝負はしないんだ。勝てる勝負しかしない!」

    偉そうに言う純也の様子がおかしくて結は笑った。
    純也が独身の男性だったら行かなかったかもしれない。
    お互いが既に結婚しているからこそ、「何かに発展することはない」という安心感があった。

    しかし・・・。

    本当は、心に隙間がある者同士だからこそ、純也の誘いを受け、引き寄せ合っていたことに、結は
    この時点では気がついていなかった。



    「ただいまー・・・」

    家に帰ると珍しく佑一が先に帰っていた。

    「ごめん、今日飲み会で・・・。ご飯何も用意してないの。今から作るね」

    結は焦って言い訳をしたが、佑一は結の顔を見ることなくビールを飲みながらテレビを見ている。

    「いい。食べてきた」
    「・・・そう・・・」

    普段は佑一は平日でも帰りが遅かった。12時前に帰ってくることはほとんどない。
    結は念のため土曜日に予定が入ったことを告げておこうと思って口を開いた。

    「あのね、今度の土曜日なんだけど・・・」
    「俺、土日でゴルフだから」

    佑一が拒絶するように言った。結がどこかへ行こうと誘うと思ったのかもしれない。

    「そうなんだ。わかった・・・。じゃあ、私、お風呂入るね」

    佑一は返事をせず、ビールを飲み続けた。

    結は荷物を部屋に置いてバスルームに向かった。
    暑いので湯は溜めず、シャワーですませることにした。

    ジャー・・・

    メイクを落とす。
    ふと、バスルームの鏡を見る。

    会社とは全く違った、暗い顔をしている。
    リラックスできるはずの家が、結にとっては気分が重くなるだけの空間だった。

    佑一は浮気していた。同じ職場の年上の女性だった。
    どうやら結婚してすぐにその関係は始まったらしかった。

    最初の頃は結にバレないよう気を使っていた佑一も、徐々に隠す努力をしなくなっていった。
    ほとんど残業のない職場のはずが、毎日帰りは遅く、土日もほとんど家にいることがなくなった。
    セックスの回数も激減し、そのうちいっさい触れ合うことがなくなった。

    女性の存在を感じていた結は、悩んだ末、興信所に浮気の調査を頼んだ。
    証拠としてラブホテルに出入りする写真、車の中での性行為の写真を手渡された。

    やっぱりと思ったものの、それを突きつけるわけでも離婚を申し出るでもなく、未だに何も知らない
    ふりをして一緒に生活をしている。

    佑一は父の紹介で結婚した。結は父の真面目なところや優しいところが大好きだったし、尊敬していた。
    そんな父の紹介する人ならと、迷わず結婚したのだった。

    実際、結婚する前の付き合っている期間、佑一はとても誠実で優しかった。
    しかし、結婚して浮気をしていることがわかって、結は初めて気がついたのだった。

    佑一は普段が真面目でしっかりしている分、プライベートでは甘えたいという欲求が強くあったのだ。

    年下の結の前ではいつもしっかり者を演じていたが、浮気相手の8歳も離れている女性には格好つけず
    甘えることができるようで、写真を見てもそれがが見て取れる。

    おそらく、その関係を覆すことはできないと結はわかっていた。
    それでも離婚しようと思ったことはなかった。

    父が間違いなく悲しむし、二人の子供を楽しみにしている両親に、孫の顔を見せたいと思っているからだった。

    いつか自分のもとに帰ってきてくれる・・・。

    結はどこかでそう信じているのだった。


    鏡で自分の体を眺める。
    張りのある形の良い胸、少し肋骨が浮き出てはいるが、痩せすぎず、女性らしいラインの健康的な身体。

    佑一は全く触れてこない。そんなに魅力的ではないのだろうか・・・。

    自分で自分の体を慰める日々・・・。終わった後の虚しさ・・・。

    帰ってこない佑一を待って、寂しさで度々涙を流すこともあった。

    そんな時の、純也からの誘いだった。

    (たまには・・・私だって、デートぐらいしたって・・・)

    結はそう自分に言い聞かせた。



    土曜日。

    花火大会とあって、駅は人々でごった返していた。
    結は淡い白藤色に漆黒色の撫子の柄が入った浴衣に、帯も漆黒色の金色で小さい花びらが刺繍されたものを
    合わせて着てきた。

    大人っぽい雰囲気と可愛らしさが混ざって、とても気に入っていたが、これを佑一の前で着たことはなかった。

    髪も可愛らしくセットし、メイクも明るめにしてきた。
    身支度が楽しくて仕方ないと思ったのはいつぶりだろう・・・。

    純也がどんな反応をするか、緊張して待ち合わせ場所に向かう。

    純也は土曜日までの間、会社ではいたっていつも通りで、デートの誘いをしたことを忘れているかの
    ようだった。
    IPメッセンジャーで連絡が来て、ようやく信じることができた。

    『土曜日 押上駅 18時に待ち合わせね。浴衣楽しみにしてるよ』

    浴衣を念押しされて、結はこっそり微笑んだのだった。

    地上に上がると、すぐに純也の姿が目に入った。
    バーニーズニューヨークの紺地に赤と白のラインの入ったポロシャツにジーパン、ディーゼルのブルーの
    スニーカーという井出達だった。

    髪も会社で見るより無造作にセットされている。いつもよりずっと若く見えた。

    「高科さん」

    純也が顔を上げて結を見る。
    ハッとした表情をしたかと思うと、何も言わずにじっと結を見つめた。

    「・・・あの・・・高科さん?」

    純也が何も言わないので、結はどこかおかしいのかと心配した。

    「・・・すげぇ・・・想像以上だ・・・」
    「え?」

    純也が照れたように、嬉しそうに微笑む。

    「すっげー可愛い!!」

    大きな声に周りにいた人々が純也と結をじろじろと見た。
    結は恥ずかしくなり、行きましょうといって慌ててその場から離れた。

    純也はしつこく可愛いと繰り返し、結は何度もやめてくださいと言って照れた。

    「いやー、嬉しいなぁ。まじで。誘ってよかったなぁ」
    「はいはい、わかりましたから、もういいです」
    「あ!そうやって流す!?ひどいなぁ。心から褒めてんのに」
    「じゃあ、どうしたらいいんです?『やだ〜も〜ありがと!』・・・とか言えばいいんですか?」
    「そうそう、ハート付けてね」

    そう言いながら下町の狭い路地を迷うことなく歩いていく。
    どうやら熟知しているようだった。

    「高科さんて、この辺に住んでるんでしたっけ・・・?」
    「今住んでるのは目黒。実家がこの辺なんだ。正確に言うと浅草の方なんだけど、花火の時は浅草
    馬鹿みたいに混むから。穴場知ってるから、そこでゆっくり見よう」

    純也は下駄で歩きづらそうにしている結に気付いて、歩くペースをゆるめた。

    「へえ・・・浅草かぁ。下町っ子なんですね」
    「おうよ。ちゃきちゃきの江戸っ子よ!100円をつい『しゃくえん』って言っちゃうもんね」
    「なんですかそれ??」
    「え〜?知らないの?江戸っ子は『ひ』を『し』って言っちゃうんだよ」
    「知りませんよ。私、埼玉っ子だし」
    「埼玉かー。埼玉もいいとこだよな。うん。ガキの頃はよく東武動物公園行ったよなぁ。
    あ、しゃくえんて言っちゃうのは嘘だよ?ばあちゃんは言ってたけど」

    純也の軽快な話し方に、結は自然と笑い、冗談を言った。
    純也が女子社員に人気があるのもわかる。話していて楽しい気持ちにさせるのだ。


    純也が連れてきてくれた場所はすべり台と砂場があるだけの小さい公園だった。
    まわりは普通の民家だった。とても花火が見えそうになかった。

    それでも地元の人らしき人が数名集まっている。まさに穴場といった雰囲気だった。
    二人でベンチに座る。

    「あっちの方に見えるんだ。そんなに大きくないけど、ちょうど邪魔な建物なくて、綺麗に見えるんだな」

    正面を指して言った。
    空が暗くなってくる。そろそろ始まるようだった。

    結はワクワクして空を見上げた。
    そんな結を見つめて純也は再び嬉しそうに言った。

    「可愛いなあ・・・」

    結は純也に視線を移す。
    純也は背もたれに肘ついて体を完全に結に向けていた。

    「あのー・・・。高科さんて、結婚してても奥さん以外の女の子とよくデートしてますね?」
    「ちょっと待て!なんでそうなるの」
    「だって、おかしいです。結婚してんのに、そんなこと言ったりして・・・。
    誰にでも言ってるって感じ・・・」

    純也は額を押さえて、あからさまにがっくりした様子で言った。

    「何でそうなるかなー。女の子とデートなんて、結婚してから初めてだよ。ここに誰か連れてきたのも
    初めてだし。嫁さんも連れてきたことなんかないんだから」
    「・・・・」

    結は少しおおげさに信じられないなーという目で純也を見る。

    「うわー。全然信じてない、その目。言っておくけどね、僕はなかなか可愛いなんて言わないんだ。
    江戸っ子はね、宵越しの銭は持たねぇんだ」
    「宵越しの銭って・・・全然関係ない!」

    結が笑った時だった。

    大きな音を立てて花火が上がった。

    「・・・・!」

    一つ、また一つと上がる。
    まだ少し明るい空に色とりどりの火が流線型を描いて落ちていく。

    たくさんの花火が打ちあがり、空が明るくなった。

    「綺麗・・・」

    結は息を呑んで空を見上げた。
    美しさに心が奪われる。日常の出来事を忘れて見入った。

    しばらく二人で無言で花火を見つめる。花火の音の合い間に虫の音が心地よく耳に響く。

    人ごみだったらこんなにゆっくり見られなかっただろう。結は純也に感謝した。

    「しまったなー・・・」

    純也がポツリと呟いた。
    純也の方を見ると、純也がじっと結を見ていた。

    「・・・何がです?」
    「混んでたら、ドサクサにまぎれて手、繋げたのに」

    純也の言っていることがすぐに理解できず、結は純也の瞳を見つめ返した。

    「あの・・・」
    「手、繋いだら・・・浮気?」

    純也の真剣な眼差しにドキリとする。

    急にベンチに置いてる手がすぐ近くにある純也の手を意識し始める。
    返答に困った挙句出てきた言葉は、妙にリアルなものだった。

    「そこに・・・恋愛感情が・・・有るなら・・・」

    純也がクスっと笑って手の平を見せて差し出した。

    「じゃあ、浮気だ」


    結は純也の大きな手の平を見て動けなかった。

    (この人・・・どういうつもりなんだろう・・・)

    純也の心中がわからず、結は戸惑った。
    お互い結婚しているではないか・・・。

    純也は結の戸惑いを無視して、結の手を強引につかんだ。

    「!」

    結は純也の顔を見つめた。からかうような要素は見当たらない。真剣な表情だった。

    純也の手は温かかった。

    久しぶりに感じる人の体温だった。なめらかな肌の感触、ごつごつした骨の硬さ・・・。
    結は泣きそうになった。

    佑一からの拒絶の日々を過ごしてきただけに、純也のぬくもりが結の心に染み入った。

    「・・・俺さ、実は、桜井が旦那さんといるとこ見たことあるんだ」

    純也の言葉にドキリとした。結は何も言えずに純也を見つめた。

    「ホテルの最上階のレストランで。まあ、俺もね、奥さんと行ってたんだけど。
    その時、桜井が一生懸命話かけてんのに、旦那さんは冷たくてさ。あ、話の内容まではわかんないよ?
    旦那さん、全然桜井の方見ないのに、桜井は必死に話題探して話しかけてるって感じで」

    純也が目撃したのは結婚記念日に食事した時のことだろう、と結は思った。
    結が店を予約し、無理やり食事に一緒に行ってもらったのだった。
    佑一はずっと不機嫌そうに食事をしていたことを思い出す。

    離れて見ていても、夫婦間がうまくいってないと一目瞭然だったに違いない。

    「会社じゃいつも明るくて笑ってる桜井が、すごく辛そうで、痛々しくて・・・。
    俺、なんでそんな顔させるんだよって、内心旦那にムカついてたんだ」

    純也はそれ以来ずっと結のことを気にかけていたらしかった。
    結はそんな姿を見られていたことが情けなくて、恥ずかしくてうつむいた。

    「変なとこ、見られちゃいましたね・・・。そうか、だから可哀想って思って誘ってくれたんですね・・・」
    「ちょっと待てよ。可哀想って、そんなんじゃない。俺なら、絶対あんな顔させないのにって思ったんだ。
    桜井を楽しませてあげたいって思った」

    純也の真剣な訴えに、結は胸が熱くなってくるのを感じた。


    「高科さん・・・」
    「高科さん、は禁止」
    「・・・え?」
    「純也って呼んでくれなきゃ、だめ」

    結は純也の突然の申し出に面食らう。

    「えーと、無理です」
    「えー!なんで??二人の時だけ、いいじゃん。『高科さん』じゃー雰囲気出ないよ」
    「雰囲気出ないでいいです」

    結は笑った。
    一瞬張りつめた空気が再び和らぐ。それでも先ほどと違うのは、純也が結の手を握り、手の甲を親指で
    優しく撫でていた。

    「待った!敬語もやめてくれる?」
    「注文多いですね」
    「はい、もう今からね。呼んでみて、純也って」

    結は迷ったが、純也の押しに負けて口にした。

    「純也・・・くん・・・」
    「純也くん!?」
    「だって、呼び捨てってちょっと・・・」

    慣れ慣れしすぎると思い、結には呼べなかった。

    「・・・いい」
    「え?」
    「いいね!純也君!それで行こう!」

    純也が目を輝かせて言った。結はそんな純也が可愛いくて思わず微笑む。

    「じゃあ、私のことは?なんて呼ぶの?」
    「そりゃあ、『結』でしょ、やっぱ」

    純也は嬉しそうに返す。結は名前を呼ばれて照れた。

    「結って良い名前だよなあ。結ぶって意味だもんね。ぜひ俺も結んで欲しいね。
    結・・・結・・・ユイユイユイユイユイユイユイレール♪」
    「言うと思った・・・」

    二人はまるで恋人同士のように寄り添って、冗談を言い、ふざけあった。
    結は心から楽しんでいた。

    綺麗な花火と、楽しい会話。そして、純也の手のぬくもり・・・。

    結にとってかけがえの無い時間になった。

    いつまでも続けばいいのに・・・

    心からそう思った。



    花火が終わり、純也が駅まで送ってくれた。

    「俺、今日は実家泊まるから」
    「はい。ありがとうございました。とっても楽しかったです」

    結は名残惜しさを感じつつ、楽しい時間は終わったのだといわんばかりに敬語に戻した。
    しかし、純也はなかなか手を離さない。

    「・・・・あー、離したくないなぁ、手」

    純也がしみじみと言う。

    こんな風に言われたのは何年ぶりだろう。そんなことを言われたら誰だって嬉しいはずだ。
    夫とうまくいっていなければなお更だった。
    結をいい気分にさせてくれた純也に心から感謝した。

    (そうだよ・・・少しチヤホヤされたからって、いい気になったらだめ。今日だけなんだから・・・)

    「また、デートしてくれる?」

    純也がまっすぐ結を見つめて言った。

    (だめだ、次に二人で会ったら、きっとこの人を好きになってしまう・・・)

    結は気持ちにブレーキをかけた。純也との時間があまりにも楽しすぎた。

    「そうですね・・・また」

    社交辞令でそう答えたが、結はもうやめようと心に誓った。
    純也がそっと手を離す。

    ぬくもりが去り、思ったよりずっと寂しくなった。

    結は純也の視線から逃げるようにして去っていった。





    「いいじゃん。軽い気持ちでさ、遊びで付き合っちゃいなよ、その人と」

    昼休みの社員食堂で同期で友人の佐野瑛子が言った。

    「そういうこと簡単に言ったらだめだよ」

    同じく同期で友人の木村秋が少し強い口調で言う。

    相手が純也ということは伏せて、旦那以外の男と花火を見にいったと報告したのだった。

    瑛子は妻子持ちの男性と付き合い、激しい恋愛劇の末略奪したのだが、相手が離婚したとたんに男と
    別れたという経験を持っていた。
    秋は見た目は好青年で、周りには隠していたがゲイだった。一回り歳の離れた『彼氏』がいる。

    三人は何でも話し合う仲だった。

    「結ちゃんは遊びで付き合うとかできるタイプじゃないんだから」

    秋が瑛子に言い聞かせるように言った。

    「そお?だって、現に軽い気持ちでデートしたわけじゃん。旦那ともレスってんだし、
    身体の寂しさ解消するにはもってこいだと思うけど」

    瑛子は悪びれる様子もなく言い返した。

    「結ちゃん、その人のこと好きなの?」

    秋が少し心配そうに尋ねた。

    「好きって・・・。だって、まだ一回しか二人で会ってないし・・・」
    「また会うんでしょ?どうせ」

    瑛子がニヤニヤしながら言った。
    結はうつむき、首を横に振った。

    「もうやめた方がいいと思ってる」

    瑛子と秋が顔を見合わせる。
    二人は結の気持ちを察したようだった。

    「結ちゃん・・・好きになりそうなんだね?」
    「じゃあ、もう離婚してその人と正々堂々と付き合えばいいじゃん」
    「瑛子!だから、そういうこと簡単に言ったらダメだって!」
    「なんでよ。子供もいないんだしそんなに問題ある?2分に一組離婚してる時代なんだから、
    別に珍しかないわよ」
    「珍しいとかの問題じゃないって。それぞれに事情があるんだから、そんな簡単に離婚しますってわけには
    いかないんだよ」

    二人の争いが始まって、結は慌てて間に入った。

    「ちょっと待って!私、離婚とか考えてないし、もう二人で会うつもりも本当に無いから。
    ただちょっと、久しぶりに楽しかったから、二人に聞いてほしくって・・・」

    「結はその辺、良い子ぶってんのよ。そんな綺麗ごと言って気持ち誤魔化してさ。
    好きって気持ちは動き出したらもう止めらんないんだから」

    瑛子の言葉にドキリとした。

    秋がため息をついて言った。

    「結ちゃんは佑一さんと良い関係を取り戻したいんだよね?僕は結ちゃんがしたいようにしたらいいと
    思ってる。その通りに応援するよ」
    「秋ちゃん・・・ありがとう」
    「もー、そうやってあんたが甘やかすから結はいつまでも石橋渡らないのよ。
    たまにはね、崩れるってわかってる橋を渡ってみなきゃ。人生つまんないわよ」
    「瑛子はそれでだいぶ失敗してるじゃないか。自分の生き方、人にすすめられるほど立派だと思うなよな」
    「なによ!あんたこそ人にすすめられないくせに!」
    「あー!今の、かなり偏見発言!全世界の同性愛者に謝罪しろ!」

    結は二人の喧嘩を苦笑いして見守った。

    包み隠さず言い争えるこの二人が結は好きだった。だからこそ自分のことも何でも話せる。
    セックスレスで悩んでいることも、この二人にだけは話せた。

    『好きって気持ちは動き出したらもう止めらんないんだから』

    瑛子の言葉が胸に刺さる。

    (大丈夫・・・。まだ動き出してないもん。まだ・・・)



    昼休みが終わり、午後からの会議に出席するために結だけ一人、早めに食堂を出た。
    席にもどって資料を手に、エレベーターに乗り込む。誰かが乗り込もうと慌ててボタンを押す。
    閉じそうになった扉が再び開いた。

    「お疲れさま」

    純也だった。純也も同じ会議に出席する。エレベーターには二人以外誰も乗っていない。
    広いエレベーターで結はボタンの前に立ち、純也は奥の壁に背をつけて立っている。
    花火以来、二人きりになるのは初めてだった。

    「お疲れさまです・・・」

    結は少し気まずい雰囲気で返した。
    何か言わなくてはと思えば思うほど言葉が出てこない。背中に純也の視線を感じて体に力が入る。

    「『また』のデートはいつしてくれんの?」

    純也が切り出す。

    「・・・すみません」

    結ははっきりと断ることもできず曖昧に返事した。

    純也が結の背後に移動する。
    結は心の中で早くエレベーターが着いてくれないかと願った。

    純也がエレベーターボタンの上の部分に手をついた。
    そっと結の背中に純也の胸が当たる。

    「結の・・・浴衣姿、何回思い出してると思う?」

    純也が優しい声で囁いた。
    結は胸が苦しくなって身を縮めた。

    (やっぱりだめだ!ちゃんと言わないと・・・!)

    結は勇気を出して、搾り出すように言った。

    「ごめんなさい。高科さんと二人で・・・どこかに行くとか、もう出来ません」
    「どうして?」
    「どうしてって・・・」

    結は純也から離れて、純也を見上げた。

    「結婚してるんですよ、私達。もうこれ以上・・・」
    「これ以上・・・何?」

    純也が結の手を掴む。

    「一緒にいたら、結はどうなるの?」

    純也の瞳が燃えていた。
    純也はもうわかっているのだ。お互いが惹かれあっていることを。

    エレベーターが到着する。
    結は何も言わず手を振り払って先に降りた。




    結は純也を避けた。仕事の話しかしないようにしたし、視線も合わせなかった。
    純也は特別何かすることもなく、いつも通りにしている。あれ以来誘ってくることもなかった。

    一時の気まぐれだったのだ。
    佑一との関係を修復する方が大事だ。

    結は自分にそう言い聞かせた。

    明日からお盆休みだ。結は4連休で会社が休みになる。
    毎年佑一の実家がある福島に行っていた。今年もそうするだろうとてっきり思っていた。

    二人で出かけることといえば、正月とお盆休みにお互いの実家に顔を出すぐらいになっていたから、
    結にとっては久しぶりの二人での外出である。

    「佑一さん、お義母さんに連絡してくれた?」

    夜遅く帰ってきて、風呂から上がった佑一に声をかける。
    佑一は何のことだといった風に眉を寄せた。

    「・・・ああ、今年は福島帰らない。明日から北海道行くから。友達と」
    「・・・え?」

    佑一はそれだけ言うとさっさと寝室に入っていった。

    (友達・・・・)

    もちろん友達なんかではない。『彼女』と行くのだ。

    いつも土日はいなかったし、連休もほとんど一緒に過ごすことはなかったが、それでも『家族』として
    恒例になっている行事を犠牲にされたことはショックだった。

    結は自分を奮い立たせる。
    修復するのだ。こんなことで落ち込んでいてはいけない。

    結は勇気を出して寝室に入った。
    佑一ベッドに寝転がり、は携帯をいじっている。

    結はなるべく明るい表情、明るい声を出すよう心がけて佑一のベッドに腰掛けた。

    「佑一さん。そろそろ・・・子供欲しくない?」
    「んー・・・?子供?俺、面倒見ないよ」

    佑一が素っ気無く言った。

    「でも、もう私も30になるし、実家の両親も・・・」
    「・・・うるさいなぁ!君の歳や両親のことなんてどうでもいいんだよ!いちいち引き合いに出すなよ」

    佑一はそう言うと結に背中を向けてしまった。
    結は心が折れそうになるのをなんとか堪え、佑一の腕に手を伸ばす。

    「怒らないで・・・。ごめんなさい、佑一さ・・・」
    「よせよ!」

    結の手が佑一の肩に触れた。佑一のイライラは頂点に達しているようで、結の手を触るなといわんばかりに
    ものすごい力で振り払った。

    「・・・ッ」
    「明日早いんだ。もう寝る」

    そう言って布団を被ってしまった。

    結は何も言えず黙って布団を被った佑一を見つめた。
    振り払われた手がジンジンとする。
    大きな悲しみに包まれて全身が重たくなる。

    二人の間に修復の余地があるのか、結には見出せなかった。

    (いつからこうなってしまったんだろう・・・いつから・・・)

    結は手をぎゅ、と握り締めてベッドに入った。


    結局朝まで眠れず、起きたのは昼だった。佑一はとっくに出かけていなかった。
    テレビをつける。連休中の交通情報が流れていた。

    連休中に遊んでくれる友達もいない。そもそも、旦那とでかけない結を皆訝しむに違いなかった。
    実家にも一人で帰るわけにはいかない。結はどうやって連休を過ごそうかぼんやりと考えた。
    いっそ会社にでも行って仕事をしたいくらいだった。

    家の電話が鳴る。結の実家からだった。

    「・・・もしもし」
    「もしもし、結?お母さんよ。お盆帰ってくるのよね?」

    母の何の疑いも持ってない純粋な声に胸が重くなる。

    「それが・・・今回はちょっと帰れないの。ごめん」
    「あら、そうなの?佑一さんの実家にずっと帰るってこと?」
    「そう、そうなの。ごめんね」

    結は母を心配させないために咄嗟に嘘をついた。

    「そう・・・。仕方ないわね。じゃあ、また土日にでも来なさいよ。そんなに遠くないんだから」
    「うん。わかった。お父さん元気?」
    「元気よぉ。今日も釣り行ってる。結が帰ってこないって知ったらがっかりするわね」

    父は稀に見る子煩悩な父親だった。結とまだ結婚していない結の妹がいるが、二人の娘を溺愛して育ててきた。

    「もうしょっちゅう孫はまだかなって言ってるのよ。どう?そっちの方は」

    母も気になっているようで、父をだしに探りを入れてきた。

    父と母の優しい顔を思い出す。
    結は泣きそうになるのを堪えた。

    「うん・・・、頑張ってるんだけどね。なかなか。へへ・・・」

    母は残念そうにため息をついた。

    「そうねえ。こればっかりは授かりモノだから。私も結ができるまで時間かかったし、体質なのかしら」

    結は振り払われた手を見つめた。
    じゃあまたねと言って母は電話を切った。

    途端に家に一人であることを痛烈に感じ、寂しさと虚しさが広がる。
    結婚して幸せになるはずだった。それを信じていた。
    それなのに・・・。

    独身のときよりずっと寂しかった。

    (なんで私、一人なんだろ・・・)

    結はこの家にいたくないと強烈に思った。
    急いで身支度を整えて、会社に持っていっているバッグを手にとって家を飛び出した。

    孤独だった。

    どこでもいい。人の多いところに行きたい。

    結は電車に乗り、表参道の駅で降りた。
    あてどなく歩く。


    「お姉ぇーさん」

    突如目の前に若い男が現れ、結の歩きを止めた。
    ホスト風のいかにも軽そうなのりで結に声をかける。

    「可愛いねえ!これからどっか行くの?俺、田舎から出てきたばっかで東京のこと良く知らなくてさ。
    案内してくれない!?」

    ものすごい早さで捲し立てる。
    結はぼーっとその男を見つめた。

    (誰でもいい・・・誰でもいいから・・・)

    結が返事をしようとした時だった。

    「お待たせ!ごめんごめん、道混んでてさぁ」

    大きな声とともに、腕を掴まれた。
    純也だった。汗だくになってはあはあと荒く息をしていた。

    「高科さん・・・」

    声をかけた男は怪訝な顔をしたが、純也が睨みつけると大げさに舌打ちして去っていった。

    結は驚いて純也を見上げた。

    「どうして・・・」
    「バカやろー!今ついていこうとしただろ!?何やってんだよ!!」

    純也は腹立たしげに結を叱った。
    昨夜佑一に振り払われた腕を、純也がしっかりと握っている。

    この大勢の人ごみのなかで、この人は私を見つけたというの・・・?

    純也の手の温もりと力強さに、結はずっと堪えていた涙を止めることができなかった。
    ポロポロと涙が流れる。

    「う・・・」

    結が泣き出したことに純也はぎょっとし、おろおろとして謝罪した。

    「ごめん、強く言いすぎた。泣くなって」

    純也が優しくなだめればなだめるほど、結の涙腺は緩んだ。

    「俺、そこに車止めてんだ。とりあえず車に乗ろう」

    そう言って結の手をひいて歩く。
    路上パーキングに止めてある黒のアウディだった。純也が助手席のドアを開けてくれる。



    結はなかなか泣き止むことができない。純也は何も言わずにそれに付き合ってくれた。

    純也の携帯が鳴る。

    「もしもし、ごめん。うん・・・うん。あのな、ちょっと俺会社から呼び出しくらって、
    今から行かないといけなくて。ごめん、みんなで先行っておいて」

    どうやら何か約束があって、それを断っているらしかった。
    結は慌てて涙を拭いて、純也が電話を切るのを待って言った。

    「ごめんなさい!私、もう大丈夫なので、行ってください」
    「大丈夫じゃないだろ?ほっとけないよ。そんな顔して」
    「でも・・・」
    「昔っからの友達で、理解ある奴ばっかだから大丈夫。気にしないで」

    そう言って結の手を取った。
    純也の眼差しは温かく、優しかった。

    「どうして・・・私がわかったの・・・?」

    結は純也の目をそらすことができない。思わず尋ねた。
    純也が微笑む。

    「いつも結がどこかにいないかなーってアンテナはってるから、すぐわかる」
    「なんだか・・・誰かの歌みたい」
    「あー、また嘘だと思ってんだろ。まあ、いいけどね。会えただけで嬉しいから」

    純也があまりに嬉しそうに言うので、結もつられて微笑み、きゅ・・・と純也の手を握り返した。

    「あー、もぉ・・・!可愛いなぁ!」

    純也は何かを振り払うように頭を振ると、車を発進させた。

    「どこに行くの?」
    「いいところ。結が今一番行きたいと思ってるところに連れてってあげる」

    (今一番行きたいと思ってるところ?)

    純也は到着するまで行き先を言わないつもりらしい。
    結は運転する純也を見つめた。

    隣に純也がいるだけで安心する・・・。
    先ほどまで感じていた孤独感が嘘のようだった。

    「結チャン、いくら僕が好きだからって、そんなに見つめないでくれる?視線が熱くて熱くて運転に
    集中できない・・・」
    「熱くない熱くない」

    再び純也の携帯が鳴っている。先ほどの友達からだろうか。すぐに電話は切れた。

    「・・・今日、どっか行く予定だったの?」

    結が気にして尋ねた。
    純也はチラと結を見て、すぐに視線を前に戻す。

    「地元の友達とね、キャンプに。一人すげーキャンプマニアがいて、もうやたらキャンプしたがるの。
    そいつのおかげで全国のキャンプ場やら山やら川やら巡ってるよ。休みとなったら必ず誘われる」
    「へ〜。素敵・・・。そういうのうらやましい」
    「うらやましい!?それは奴が聞いたら喜ぶぞー」

    話は尽きなかった。結は二人きりではもう会わないと誓ったことをすっかり忘れて楽しんでいた。


    純也が連れてきてくれたのは千葉県にある屏風ヶ浦という場所だった。
    海岸線に連なる断崖絶壁がどこまでも続いて見える。

    日差しは暑かったが、潮風が心地よく、日が暮れかかった海は心に染み入る美しさだった。
    結にとって海を見に来るのは久しぶりだ。

    屏風ヶ浦の絶景に心を奪われる。

    「すごい・・・」
    「来たかったでしょ、海」

    純也が威張ったように言う。結はクスっと笑って頷いた。

    「どうしてわかったの?」
    「そりゃあ、女子が傷心の時は海って決まってるじゃない?あ、好きな人と行きたい場所としても
    トップ3には入るでしょ。だからね、今日はうってつけってわけだ」
    「あのー、さっきから私の好きな人が高科さんになってるみたいなんですけど・・・」
    「あ、だめだめ。純也くんでしょ、純也くん」

    遊歩道から海岸へと降りる。絶壁を見上げると、地層が何層にも重なっているのがわかる。
    よほど長い年月を経て出来上がったものだろう。

    「なんか日本なじゃいみたい」
    「だろ?すごい迫力だよなあ。東洋のドーバーって言われてんだって」
    「良く来るの?」
    「来るよ。一人でね。結にフラれた時とか、結にフラれた時とかに」
    「しつこい・・・」

    結も純也も笑う。純也はもはやあたりまえのように結の手をつないだ。
    海岸にある石の上に二人で座って海を見つめる。

    時間を忘れて二人は海を眺めた。夕日が雲と波に影を作る。
    たまにポツリポツリと会話を交わしては再び海を眺める。
    静かな時間がゆっくり流れた。

    あっというまに日は沈み、辺りは薄暗くなる。
    結は物悲しくなってうつむいた。

    「帰る?」

    純也が優しい声で切り出す。
    帰るかと聞かれて、結は沈んだ。

    あの家に今日は帰りたくない・・・。

    「私・・・今日はどこかに泊まってく。純也くんはもう帰っていいよ。今日は本当にありがとう。
    すごく・・・癒された」

    こんなに長い時間、一緒にぼんやりできる人はそうそういない。結はつきあってくれた純也に感謝した。

    「もう帰っていいよ、なんて言うなよ」

    純也が呟いた。
    結が純也を見上げたタイミングで純也が軽くチュ、とキスした。

    「!」
    「もう少し一緒にいたいって言って」

    そう言って額を結の額にくっつけて瞳を覗き込む。
    純也の熱っぽい瞳に吸い込まれそうだった。
    結はもう認めるしかなった。

    (私・・・この人が好きだ・・・)

    純也に好意を持たれているからか、ただ単に寂しいだけなのかわからない。
    でも、好きだという気持ちはもう目を背けられないほど大きくなっていた。
    純也の唇はすぐそこまで近づいている。

    「もう少し・・・一緒にいたい・・・」

    結にはわかっていた。このキスを受けたらもう引き返せない。
    それでも純也とキスしたい。純也に愛されたいと思ってしまった。

    ゆっくりと唇を重ねる。
    重ねるだけのキス。

    純也は少し震えているような気がした。結が震えていたのかもしれない。
    純也の柔らかい唇は、ずっと他人と交わることのなかった結の身体を溶かしていった。

    見つめ合っては何度もキスする。
    夕焼け空は夜空へと姿を変えていた。


    「・・・さて、どうするかな」

    ようやく車に戻ると、純也がうーんと悩み始めた。

    「俺としては、今日はとことんつきあいたいわけだけども・・・。あ!」

    純也は携帯を取り出して電話をかけ始めた。

    「・・・もしもし、俺。今日千葉じゃなかったっけ。どこ?九十九里の・・・うん・・・うん・・・」

    電話をしながらナビを操作する。どこかに行くつもりらしかった。
    結は黙ってそれを見つめる。

    「わかった。今から行く。あ、女の子一人連れてくから。違う。会社の子」

    そう言って電話を切ると車を走らせた。

    「さっき行ってたキャンプ、そこに行こう」
    「私が行っていいの?」
    「もちろん。家族連れてきてる奴もいるから。みんな女の子が来たって喜ぶよ」

    そうは言っても、みんな純也が結婚しているのは当然知っているはずで、純也が妻以外の女性を
    連れてきたらおかしいと思うのではないかと結は心配した。

    純也は大丈夫大丈夫としか言わない。結はここまできたら・・・と、気にするのをやめた。
    途中で着替えを買ってキャンプ場に向かう。1時間ほどで到着した。

    「あ!純也が来た!!」
    「遅ぇーよ!」
    「ごめんごめん」

    10人ほどの男女が火を囲んでバーベキューをしている。
    純也はみんなの前でも結の手をつないでいる。結は本当に大丈夫なのだろうかとハラハラした。

    そんな結をよそに純也がみんなに結を紹介する。

    「はじめまして。こんばんは。桜井結です」
    「おい・・・可愛いなー」
    「純也、こんな子と一緒に働いてんのか!?うらやましすぎる・・・」

    独身らしき男数名が結に近づいてじろじろと眺める。

    「よさないか、下々の者たち。彼女は私の姫なのだ」

    純也が結の前に立ちはだかると、男たちはちぇーっと言って去っていった。

    「純也ぁ、来ないかと思ったぜー」
    「たっさん、悪かったな」

    一人のがたいの良い大男が現れた。

    「こいつがキャンプマニアのたっさん」
    「はじめまして」
    「こんばんは。田辺達樹でたっさんです」
    「結ちゃんはキャンプにとても興味があるみたいなので連れてきたのだよ」

    純也がそう言うと、達樹は大喜びして結を火の近くに来いと誘った。
    これを食べろあれを食べろといろいろなものを差し出してくれる。

    「ねえねえ、純也って会社でどんな感じなの?ちゃんと仕事してる?」

    一人の男性が意地悪そうに尋ねる。

    「してるに決まってるだろ。変なこと聞くな。そして、結も変なことを・・・」

    言うなという言葉にかぶせてすかさず結が答える。

    「女の子とばっかり話してます」

    純也がぎょっとする。

    「えー!?そうなの!??」
    「ま、待って、嘘、まじで嘘だから!結はなぜそんな嘘を!?意地悪か!??」

    今の冗談で結はすぐにみんなに気に入られたようだった。
    みんな口々に結ちゃんいいねーと言って笑う。



    「結ちゃん何歳?」
    「29歳です」
    「ちょっとさぁ、合コンしてよ。合コン。出会いがなくてさー」
    「ほんと、まじで嫁さん見つけないと、浅草の存続に関わる」
    「こいつらみんな浅草の古い家の跡継ぎなんだ。みんな江戸っ子」

    純也が結に説明した。聞けば達樹と純也以外は独身なのだという。
    達樹の妻らしき女性が口を挟む。

    「あー、合コンとか絶対やめといた方がいいよ!浅草に嫁になんかいったら大変なんだから!」
    「おい、そういうこと言うなよ!お前も浅草アピールする立場だろうが!仲間を増やす努力をしろ」

    みんな明るかった。結と純也の関係を不思議がったり指摘したりするものは誰もいない。
    純也もとても楽しそうだった。純也がみんなに好かれているのが良くわかる。

    「おい純也!これできるかよ!」

    達樹の息子二人が純也に詰め寄る。

    「なんだ〜?ルービックキューブじゃねーか。余裕余裕、俺は浅草ルービックキューブ大会で
    優勝してっからな」
    「嘘つけ!ヨーヨーの時もそんなこと言って全然できなかったくせに!」

    子供たちとじゃれ合う純也の姿を見て結は微笑んだ。
    純也は子供が好きらしい。子供たちも純也にとてもなついているようだった。

    「結ちゃん、近くに温泉あるんだよ。行ってきたら?」

    達樹の妻が声をかけてくれた。

    「温泉ですか?いいですね」
    「海が見えて綺麗だったよ。もう暗いから見えないかもしれないけど」

    結はありがとうございますと言って立ち上がった。
    純也はまだ子供たちと遊んでいる。結は一人で温泉に行くことにした。

    市営の温泉だった。大浴場に入ると正面に海が広がっている。明るいうちに入ったらさぞ絶景だろう。

    体と髪を洗って湯に浸かる。
    左手の薬指の指輪を見た。

    純也を好きだと思ってしまった。
    もう佑一を責めることはできない・・・。

    セックスをしなくても、同罪だと思った。
    佑一もきっと、彼女といるときはこういう新鮮な気持ちで楽しく過ごしているのだろう。
    いや、もはやそんな時期は過ぎて、もっと深く愛し合っているのかもしれない。

    結は胸が締め付けられた。
    結の知らないところで、結の見たこと無い佑一がいるのだ。
    佑一にとって、結は邪魔者以外の何者でもない。

    子供たちとたわむれる純也の姿を思い出す。
    父親が子煩悩で、溺愛されて育った結にとって、その姿は理想的だった。

    (純也くんが旦那さんだったら・・・)

    そこまで考えてハッとする。

    この時、初めて『離婚』の文字が頭に浮かんだ。

    (離婚・・・した方がいいのかな・・・)

    すぐに父と母の顔がよぎった。
    あんなに結婚を喜んでくれた両親を裏切ることになる。

    特に父は意気揚々として佑一を紹介し、この人なら間違いないと太鼓判を押して二人の結婚を
    祝福してくれた。
    結婚式の時の父の号泣する姿を思い出すと離婚なんてとてもできないと思うのだった。

    (離婚か・・・・)



    浴場から出ると、ちょうど純也も出てきたところだった。

    「あれ?入ってたの?」
    「ひどいよなあ。一人でさっさと行っちゃうんだもんな」
    「ごめんなさい。なんだか邪魔したら悪い気がして。ルービックキューブ出来た?」
    「あはは!全然!」

    笑う結を見て、純也は少し遠慮がちに尋ねた。

    「大丈夫?楽しい?無理やり連れてきちゃって悪かったかな」
    「ううん。楽しい。みんなとっても良い人ね」
    「それなら良かった。ね、今日、テントに泊まってかない?テントとか嫌?」
    「テントに?私は全然良いけど、みんなが寝る場所なくなるんじゃない?」
    「大丈夫。3つあるし、でかいからスペースはある」

    話しているうちに皆のもとに到着する。

    「たっさん、このテントに俺ら寝ていいの?」

    純也が一番大きいテントを指して達樹に尋ねる。

    「いいよ。でも、あと二人そこに入れてやってほしいんだよなぁ。結ちゃん嫌じゃない?」
    「大丈夫、俺がしっかりガードするから」
    「・・・だそうなので、大丈夫です」

    達樹は結に一番奥で寝るようにマットを敷いて寝る場所を用意してくれた。

    「俺、もう少しみんなと飲むけど、結はもう寝る?疲れただろうから、先寝ていいよ」
    「うん。先に寝させてもらおうかな。ごめんね」

    結がみんなにおやすみなさいというと、みんながおやすみと返してくれる。
    なんだか、本当に純也の彼女になったような気分だった。

    達樹が用意してくれたマットに横になり、毛布をかぶる。
    思ったより寝心地が良く、結はすぐにまどろんだ。
    昨日の夜からいろいろなことが起こった。
    それを反芻することなく結は眠りに落ちた。




    温かいものに包まれている感触に、ふと目が覚める。

    (なんて・・・心地良いんだろ・・・)

    誰かの胸にしっかりと抱かれていた。
    体を少しずらして見上げると、純也の寝顔がすぐそこにあった。
    テントの外にランタンが灯っているらしく、オレンジ色の光に照らされていた。

    「ん・・・」

    もぞ・・・と純也が動き、薄っすらと目を開ける。

    「どうした・・・?寒い?」

    純也の間近で囁く少しかすれた声に胸がドキドキと鳴る。

    「ううん、大丈夫。ごめん、起こしちゃって・・・」

    結が申し訳なさそうに小声で答える。
    またすぐに寝てくれるだろうと思ったが、純也は目を閉じなかった。

    間近でじっと見つめられ、結は恥ずかしくなって両手で顔を隠した。

    「どうしたの?」
    「いや・・・化粧してないから・・・あんまり見ないで・・・」

    純也がクスリと笑う。

    「大丈夫だよ。それに、さっきも見たし」
    「さっきは遠かったし・・・」

    純也が結の手を取って顔から離す。

    「可愛いよ・・・」

    純也の目は潤んでいる。
    胸の高鳴りは増し、結は目を反らす事ができなかった。

    「結が・・・可愛い・・・」

    純也の向こう側に寝ている男性二人はぐっすり眠っているようだったが、気付かれたらどうしようと
    ハラハラした。

    純也が顔を近づける。ゆっくりと唇が重なる。

    「・・・・!」

    今度は重ねるだけのキスではなかった。
    純也の舌が結の唇を割って入ってくる。

    驚く結をよそに、純也は結の舌を探り当て、舌を絡ませ、吸い、唇を優しく噛む。
    結は両手をぎゅっと握り、身を硬くして純也のキスを受ける。

    純也はもはや遠慮することなく結の唇を味わった。
    こんなに情熱的なキスは久しぶりだった。

    長い長いキス・・・。

    徐々に結の体の力も抜け、純也に応えるようにキスを返す。

    純也が唇を離し、ため息をついた。

    「だめだ・・・これ以上したら、ヤバイ・・・」

    苦しそうな表情をして、結をチラと見る。
    わざとらしさに結はニコッと笑った。

    「くそ〜・・・!だから、可愛いんだってば・・・!」

    そう言って再び顔を近づけた。

    「ちょ、ちょっと待って、それ以上したらヤバイんじゃないの・・・?」

    結が少し顔を引いて純也から離れた。

    「もう少しもう少し・・・」

    そう言って再び長いキスが始まる。
    純也の『もう少し』は、結がその心地よさに眠たくなるまで続いたのだった。




    次の日は起きてみんなで朝ごはんを食べたあと、川に行って釣りをすることになった。
    純也は相変わらず子供たちに捕まって、一緒に釣りをしている。

    結は父とよく渓流釣りをしたので、慣れた手つきで餌をつけ、竿を振った。

    「あれ?結ちゃん、上手だね」

    近くにいた達樹が驚きの声をあげた。

    「父に良く連れていかれてたんです」
    「そうなんだ。サマになってるもんなあ。純也より上手だよ。あいつはああ見えて不器用なんだ」

    前に純也自身もそんなこと言ってたなぁと、結は内心思い出し笑いした。

    「結ちゃんは、純也のこと好きなの?」

    達樹が声のトーンを変えることなく、自然な調子で聞いてきた。
    結はドキリとして竿を落としそうになる。

    「あの・・・私・・・」

    何て答えたらいいのかうろたえている結を見て、達樹はごめんごめんと謝った。

    「俺さ、もうあいつとは30年の付き合いになるんだけどね、生まれた時からだから。
    だからわかるんだ。あいつは結ちゃんが好きだ。もうだーい好きなんだって」

    結は何も言えず、達樹をただ見つめた。

    「昨日、結ちゃん連れてきたときにすぐわかった。あいつのあんな顔、中学の時の初恋以来
    見たことなかったから、驚いちゃったよなぁ」

    達樹は、それを思い出してか懐かしそうに微笑んだ。

    「あいつ、ああみえてすごい硬いっていうか真面目っていうか・・・。結婚してるやつが遊ぶのとか、
    絶対許せないタイプだったわけよ。浮気なんてもってのほか、家庭があるだろって怒っちゃうような奴でさ。

    それが、この前突然電話かかってきて。『自分の信念を覆すようなことが起こりそうなとき、
    どうしたらいいと思う?』なんて言ってさ。

    何のことかわからないけど、それしか言わないから、『信念を覆したらいけないって誰が決めたんだ』って
    返したんだよ。そしたら『それもそうだな』とかなんとか言って電話を切った。

    あれは結ちゃんのことだったんだな」

    それまで和やかな表情だった達樹が突如真剣な表情になって結を見つめた。

    「二人の間には、二人にしかわからないことがあると思う。けど、俺にとって純也は家族と思えるくらい
    大事なやつで、傷ついて欲しくないから言わせてもらいたい。

    あいつが好きなら、本当に好きなら、あいつの気持ちを受け止めてやってほしい。
    でも、中途半端な気持ちなら、ばっさり切り離してやってほしいんだ」

    達樹の純也への想いを聞いて、結は胸が痛んだ。
    達樹は純也と恋するなら、相当の覚悟を持ってしろと警告しているのだ。

    子供たちとはしゃいでいる純也に目をやる。

    (わからない・・・。自分にそんな覚悟があるのか・・・)

    好きな気持ちは確かにある。それでも、離婚をしてまで純也と一緒になりたいかどうか、
    結にははっきり言えなかった。

    (はっきり言えないということは、中途半端ってことなのかな・・・)

    「・・・わかりました。良く・・・考えます」

    結があまりに神妙な表情になったので、達樹は慌てて取り繕った。

    「ごめん、勝手なこと言って。二人で決めることだよな、そういうことは。わかってんだけど、
    純也のことになると黙ってられなくて・・・」

    結は少し笑って首を横に振った。

    「いいえ・・・。純也さんは、愛されてるんですね。達樹さんやみなさんに・・・。うらやましいです」

    結の言葉に達樹は照れて笑った。

    「結ー!」

    純也が結に向かって手を振る。
    子供たちと競争するように結に向かって走ってくる。

    「見て!すげーの釣れた!!」
    「純也!俺が釣ったんだぞ!返せ!!」

    純也の無邪気な笑顔を見て胸が痛む。

    (この人が好きだ・・・でも・・・)

    結の心の中で嵐のような葛藤が巻き起こっていた。



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